みやざきけん みやこのじょうりょうしゅかん
■都城領主館=見学自由
■都城市役所、他
駐車場=都城市役所&路駐。
2011/5/4現在
住所=都城市姫城町
この時は、(西都城駅の南東付近の)国道10号沿いの都城市役所へ。
都城島津氏は、南北朝時代の文和元年(1352)島津本家4代忠宗の6男尾張守資忠が当地方の領主となったのが始まりである。 2代義久が永和元年(1375)に都之城(現在の城山公園一帯)を築き、12代忠能まで、240年間その本城とした。 元和元年(1615)幕府の一国一城令で廃城になり、ここに領主館を構え、江戸時代にふさわしい街づくりを進めた。これが現在の都市の原形となった。 薩摩藩に属する都城島津氏は、江戸時代に入って石高は減少したものの約4万石の大身で、その行政機構なども藩庁に準ずるものであった。 26代久寛の時、明治維新を迎えたが、500年余にわたり支配した領主は、歴史上にも稀なる存在であった。 明治4年の廃藩置県で領主館は、そのまま都城県43万石の県庁舎となり、同6年には宮崎県の設置により、都城支庁舎となった。(都城市教育委員会の案内板より)
【左】不思議な形。
【真ん中】可愛い♪
【右】方向によっては、説明板が隠れてて、「アッ!」って感じで発見する(笑)
市庁舎と明道小学校の間の通りを御屋敷通りといった。 都城島津家の御屋敷(旧領主館)内を南北に通っていたので、このように名付けられた。 元和元年(1615)の新地移りの時は、この通りの西の方に御屋敷があり、この通りに面して東向に表門があったので、当時は御屋敷前通り、あるいは御門馬場といった。 幕末、都城島津家の家老をつとめた安山松巌が書いた「年代実録」によると、鹿児島の島津本家から光久の二男久定が都城島津家16代当主として迎えられた時、 父光久の命により、明暦2年(1656)に御屋敷の大改造があり、御屋敷は1町(1町は60間・1間は1.82m)東方に移された。 この時、表御門は現在の市役所第一駐車場入口付近に移され、この新しい表御門の前の通りが今の御門馬場となり、御屋敷前通りの所は御屋敷内に入ることとなり、道は無くなった。 御屋敷通りが開通したのは、明治になってからと思われるが、前田厚著「都城地名考」には、明治3年頃の開通とある。 明道小学校校舎の東側の壁の高みに記されている「明道館学制三章」を作ったのは、寛政の頃(1789〜1801)の都城の漢学者である坂本正衡である。(都城市教育委員会の案内板より)
クスノキは中国南西部から日本の団地にかけて広く分布する。 木全体から芳香が漂い、材からは樟脳が取れ防臭剤や防虫剤として用いられ、この特性から建築材、家具、楽器などに利用されている。 このクス並木は、明治41年(1908)都城尋常小学校女子部の第1回卒業生が卒業記念に植樹したものである。 14本の老樹群は今なお成育旺盛で、他に類例を見ない貴重な文化財である。(都城市教育委員会の案内板より)
城内には、老中馬場・桜馬場・八幡馬場・虹馬場・北口馬場等多くの馬場があった。 老中馬場は、領主館東口より、市庁舎本館東側(江戸時代は表門があった)に面して、南北に走っていた御門馬場までの間を東西に走る直線道路で、 この通り一帯は領主一門をはじめとする重臣の屋敷が多かったので、このように呼ばれた。 城内(領主館域)の出入口には、東口・北口・西口の三口があり、それぞれに番所が設けられていた。 東口は老中馬場の東端(説明板の右方約200m先)にあって、志布志往還(街道)よりの入口でもあった。 現在、高さが低く目立たないが、歩道脇の植え込みの茂みの中に、東口番所跡と記された石製の標柱がある。 北口は現在の広口交差点付近であった。本藩の鹿児島に通じたのが西口で、西口番所は宗正病院(八幡町)北側付近にあった。 領主館の南は、川や崖があり、険しい地形であったので、出入口や番所は設けられなかった。(都城市教育委員会の案内板より)
都城領主館 2011.5.4記
市役所に案内板、南西角に県庁跡の碑、市役所から見た小学校に、御屋敷通りの説明板、 図書館の南側の通りに老中馬場の説明板があったりと、ちょこちょこ見所がある(^^) 島津邸もあるけど、この時は、朝の7時40分。見学時間には程遠く(笑)都城領主館の見学で終了。