長野県 飯山城 |
■飯山城=見学自由 ■飯山城址公園 駐車場=飯山市民会館か城址入口奥のスペース (2009.9.20現在) |
住所=飯山市飯山 この時は、中野市から飯山市へ国道403号を進み、 国道117号との中央橋西信号を過ぎて県道97号へ。 本町信号を右折して、仲町交番前信号を右折。 少し進むと左側に城門、その先の左側に飯山市民会館。 この時は満車だったので、 正面を左折して城址入口付近のスペースに駐車した。 |
飯山城 | ||
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この地は、東は千曲川に沿い、西は関田・斑尾の山地に 囲まれ、越後への軍事交通の要地であった。 城は独立丘陵を削りならして構築した平山城で、 梯郭式に本丸・二の丸・三の丸が南北に連なり、その 西側は帯郭・西郭・外郭に区画され、四周は一重の 濠をめぐらす。本丸の南面は特に防備を固め、 濠は広く、土塁は高く、急傾斜で、東・北・西の三面は 直立に近い石垣を築く。本丸・二の丸・三の丸には 城主の居館・政庁・城櫓があり、西郭は重臣の屋敷、 濠外は家中屋敷・公共施設、その外側に城下町が発達していた。 この城はもと常盤牧の泉氏の居城で、のち上杉謙信の 属城となり、永禄7年(1564)頃、武田信玄の侵攻に備え、 謙信の創意の縄張とさらに上杉景勝の修築による 特色ある城郭で、上杉氏の信濃出陣の拠点となった。 慶長3年(1598)上杉氏の会津移封後は、関・皆川・堀・ 佐久間・松平・永井・青山・本多の諸氏が交替して 城主となった。 (長野県教育委員会・飯山市教育委員会) | ||
土塁 | ||
飯山市民会館手前の反対側付近にある土塁。 城跡の土塁なのかな?ちなみに、 飯山城跡の標柱も立っている。 | ||
長野県スキー発祥の地 | 飯山市民会館 | 入口の土塁と標柱 |
スキーは昔、軍用の為に研究されて いたらしい!ちなみに、手前に城門。 それをくぐって奥に南中門跡がある。 |
左側が飯山市民会館。正面左側が 飯山城入口。写っているのは愛車。 すぐ近くのトイレに行った私待ち…。 |
飯山市民会館の駐車場が、満車 なので、城跡へ進んでスペースに 駐車。城門西側にも駐車場あり。 |
本丸&本丸の石垣 | ||
本丸には神社が立っていて、鳥居をくぐって左側に石垣がある。 (右)真ん中の写真の左側を。 | ||
桝形へ | ||
(左)石段から上がって西側を。 (真ん中)石垣から左に折れて桝形へ。 (右)真ん中の石垣上から見下ろして。 | ||
桝形から二の丸へ | ||
(左)桝形から振り返って。奥に見えるのは、 桝形を見下ろした石垣。 (真ん中)二の丸へ。 (右)二の丸側から。 | ||
本丸西側 | ||
(左&真ん中)桝形から出て西側へ向かうと、角に少し 石垣があるものの殆どが土塁に。 (右)神社入口側から。 | ||
二の丸から本丸の石垣 | |
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(左)格好いい〜(^w^)♪ (右)二の丸から石垣を全部おさめようと思ったら、 意外と長くてビックリ(^^) | |
本丸東側から的場へ | ||
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(左)本丸東側の石垣を見つつ的場へ。 (真ん中)的場側から石垣を。 (右)左側から奥が的場。ただ、草が凄い…。 | ||
二の丸 | ||
二の丸からの眺望が良くて、気持ちがいい(^^) 千曲川や中央橋も見える♪天気のいい日でよかったなぁ。 | ||
三の丸 | ||
(左)三の丸はいろいろと植えられていた。 (真ん中)三の丸から二の丸の土塁を。 (右)調練場を見下ろして。 | ||
調練場からの登城道 | ||
飯山城・城門(右=岩井備中守信能公之碑) | ||
江戸時代の飯山城内には、櫓、御殿、番所などとともに
15の門があった。明治5年(1872)から飯山城内の
取り壊しが始まり、いろいろな建物のなかで、城門に
ついては各地へ売却されたと伝えられている。
多くの門が各地へいせつされたものと思われるが、確実に
飯山城の門といえるものは長野市へ移設された南大手門、
神明町の妙専寺へ移設された本丸裏門(不明門)、長野市田子へ
移設された門(どこの門か不明)である。
■南条丸山家の門… ここに移築した城門は、飯山市柳原南条の丸山家に残されていた 長屋門である。この門は、飯山城内のものか、上級武士の 住宅の門か不明であるが、建物の部材の様式から、妙専寺山門、 田子の城門と同じ作事場で製作された門と考えられ、 飯山城に関係した門の1つとする根拠は充分にある。 だが、明治時代に移築された際、住居の一部に転用する大幅な 改造が加えられた為、城門とすると飯山城内のどこの門に 該当するのかは判明しない。 ■移築復元について… この門は平成5年度に丸山家の旧住宅の解体にともなって、飯山市が 移築復元した。解体に当たっては家屋の柱や部材を全て調査し、 当時の門の材料のみを多くの部材の中から取り出した。全体規模に ついては不明の為、当時のままの復元は不可能であった。 平成4年、弓道場の建設にともない飯山城南中門付近の発掘調査が 行われ、南中門などの遺構が発見された。弓道場の前にその遺構が 展示されている。今回の復元にあたっては、旧門の材料を生かしながら 全体規模・構造は南中門(間口五間・奥行二間半)にあわせて 復元することとなった。(飯山市・飯山市教育委員会の案内板より) |
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南中門跡 | ||
この遺構は、平成4年(1992)、弓道場建設に伴う 調査によって発掘された、南中門跡を盛土して 保存し、その上に新たに礎石・雨落溝を配して復元 展示したものである。 城内の門については、当時の絵図面や古文書によって 存在していた場所が分かっていたが、発掘によって礎石等が 発見されたのはこの南中門が最初となった。 門の規模は、間口五間(約9m)、奥行二間半(約4.5m)で、 絵図面では二層門となっている。また、門全体の敷地は 30.3坪(約100u)で、古文書に記載通りの広さであることも 確かめられた。 江戸時代の飯山城内通路は、南大手門より入り、この南中門 を通って三の丸、二の丸、本丸へと登っていくのである。 なお、南中門に接して番所及びかご部屋跡も発見されている。 (飯山市・飯山市教育委員会の案内板より) (左)南中門跡と礎石。(真ん中)復元城門をくぐって奥にある。 (右)下の駐車場からも上がる事が出来る。結構高い。 | ||
大手門跡&水堀跡 | ||
(左)大手門跡付近を。 (真ん中)鳥居から出て左側を。この付近は水堀跡で少し低い。 (右)付近にはこんな水路も。 | ||
■飯山城
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