真田氏館
(写真をクリック→拡大)
|
真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、
現在でも「御屋敷」と呼んで親しまれている。また、中世豪族の
居館の形態が、ほぼ完全な形で保存されており、真田氏一族の
貴重な遺跡として昭和42年に長野県史跡の指定を受けた。
この館跡は、西方に開いた本原扇状地の奥に位置し、
また、真田氏城跡群がこの扇状地を取り囲んで築かれた事からも、
堅固な立地を考えて居館としていた事がわかる。
(北東に真田本城、東に天白城を、北に神川を隔て
横尾城、その隣に曲尾城、西に戸石城、
西南に矢沢城等が配された要所。)
居館の四方を囲んで築かれた土塁は、周囲520m余あり、
外周には、堀が巡っていたと推定されている。
特に北面は、大沢川が天然の堀となって現在も残っている。
また、土塁の南面に、大手門、北面に搦手門
があり、南東の角にも小規模な門があったといわれている。
土塁の内側は、主に二段の曲輪からなり、東側上段の曲輪には、
真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太神社が
まつられている。西側下段の曲輪には、その北西隅に厩と称される
約10m四方に区画された土塁が見られる。
(真田氏ゆかりの郷 長野県真田町の案内板より)
|
大手門跡(一番上)付近の石垣 |
西曲輪の土塁 横から&上から |
マレットゴルフ場になっていて、本当に入っていいのかな
〜なんて思ったりする公園(笑)
|
|
|
|
西曲輪 |
厩 |
搦手門(外へ向いて) |
夕方、人気の無い真田氏館跡は、かなり寂しい(笑)
東曲輪(皇太神社)を歩くのが一番苦手だったな〜。
|
|
|
|
搦手門(御屋敷方面へ向いて) |
搦手門付近の堀? |
|
|
|
東門辺り? |
東門?から出陣広場を通って道路へ |
よく分かんないまま散策。結局この辺りかな〜
なんて撮ったんだけど。
|
|
|
|
出陣広場のマレットゴルフ |
真田氏歴史館 |
景色 |
時間が間に合ったら、くるみおはぎが食べられたのにな〜。残念。
山が後光が射しているみたいできれいだったよ。
|
|
|
|
真田氏歴史館&真田庵 |
(左)入口だけど、駐車場側から入った。
(真ん中)縁の品々が見られる真田歴史館。
(右)真田庵。(2009.9.19撮影)
今回のメインは、以前食べられなかった真田庵のおはぎ!
クルミ味とゴマ味の2種類で、凄く美味しかった〜♪
|
|
|
|
上田駅の真田幸村の像 |
真田氏は上田の北、現在の小県郡真田町に本拠をもつ領主だったが、
戦国時代末の幸隆の時に、信濃へ進出してきた武田信玄に仕えて
頭角を現した。武田氏の家臣として、真田氏は幸隆・昌幸の2代で
真田の地から峠を越えた上野国(群馬県)の吾妻郡や沼田(利根郡)
にかけて勢力を築いた。そして、天正10年(1582)の武田・織田両氏の
相次ぐ滅亡による混乱の中で真田昌幸は、周辺の上杉・北条・徳川
という強豪のはざまにあって目覚しい働きを見せ、その勢力を
更に拡大する。天正11年(1583)には上田城築城にとりかかり、
上田盆地を中心とする小県郡一帯をもその支配下におさめた。
こうして成立した真田領は石高は10万石足らずだが、上信の2国に
またがり、上田沼田間だけでも約100kmもあるという広大なものだった。
真田氏としては、昌幸の次男であった幸村が有名。
幸村は慶長5年(1600)の上田城籠城戦(関ヶ原合戦の一環)後、
天下を取った徳川家康によって父・昌幸とともに高野山に流された。
そして、その山麓の九度山で長く暮らした後、豊臣秀頼に
招かれ、大坂冬・夏の両陣に於いて、徳川勢を相手に大活躍した。
幸村はここで討死したが、「真田、日本一の兵」と言わせた程の
武勇は、その後長く後世に語り継がれることとなった。
(案内板より)
(右)上田駅の水車。
|
|
|
|