長野県 高梨氏館 |
■高梨氏館(別名=中野小館)=見学自由 ■高梨館跡公園 駐車場=無料駐車場 (2009.9.19現在) |
住所=中野市小舘 この時は、国道403号を北上し、江部交差点で県道29号へ右折。 線路を過ぎてすぐの吉田信号を真っすぐ進んで県道358号へ。 中町信号で直進して、県道54号を横切った先の 左側。案内板有り。 |
高梨氏館 | ||
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高梨氏館跡は、東西約130m、南北約100mの規模で四方に 土塁と堀が巡る、北信地方最大の中世の方形館跡である。 本館跡は、平安時代末期に始まる頼季(よりすえ)流信濃源氏の 有力武士団である高梨氏の築造によるものと推測される。 高梨氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて北信地方で勢力を拡大し、 室町時代後期までには中野地方を完全に支配下に置いたと見られ、 この勢力拡大の過程の中で、当地に本拠地を構えたものと考えられる。 室町時代末期、甲斐武田氏と越後上杉氏の抗争の中、高梨氏はかねてから親交の深かった上杉氏を頼り、 越後に一時退去するなどの紆余曲折を経た後、慶長3年(1598)に 上杉氏が会津に移封されると、共に会津へ移った。 それに伴い館も廃館となったと考えられる。 昭和61年から平成4年に欠けて実施された公園整備の為の 発掘調査では、門跡1棟、礎石建物跡5棟、掘立柱建物跡7棟、 庭園跡などが確認された。中世の方形館跡内で庭園遺構が 確認されたのは、県内では唯一の事例である。 また土塁の断ち割り調査では、土塁が少なくとも三段階の構造過程を 経ている事が確認された。 北信地方の武士団である高梨氏の中世の方形館跡で、庭園跡や 三段階以上の土塁の構築過程などが確認された事は、中部地方の 武士団の文化的レベルや方形館の発展過程を考える上で重要である。 (中野市・中野市教育委員会の案内板より) | ||
駐車場 | 高梨小館城址碑 | 高梨氏館跡碑 |
広々とした駐車場。 | 横には、関山国師生家の文字も。 | こちらは新しめな石碑。 |
大手口 | ||
南西側の大手口。説明板の裏側に概要図があるんだけど、 撮り忘れた…。 (左&真ん中)外側から。(右)内側から。 | ||
大手口から西側の空堀。 | 大手口から入って右側の土塁。 | 大手口から入って左側の土塁。 |
土塁と築地塀 | ||
土塁を調査した結果、土塁の中に 漆喰で固められた築地塀が埋もれ ていた。このことから、土塁が造ら れる以前に、築地塀が存在していた ことが明らかになった。このような ことは極めて稀な例であり、土塁で 囲まれた居館の成立過程を知る 貴重な資料となる。(中野市教育 委員会の案内板より) |
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南側に架かる木橋 | ||
1番最初の写真は逆から。 | 木橋から大手口と空堀を。 | 木橋を渡って南東の土塁と空堀。 |
木橋を内側から。 | 木橋内側から大手口方面の土塁。 | 館跡から木橋方面の土塁。 |
高梨氏館跡の建物跡と庭園跡 | ||
昭和62年から6ヶ年にわたって行った発掘調査により、 館の東南隅部には庭園があり、その北側に計8棟の建物が 建っていたことが明らかとなった。建物のうち5棟は礎石建物で、 3棟は掘立柱建物である。 礎石建物のうち第3号建物址は南側の庭園に臨んで建ち、 館の主殿と考えられる。東面土塁に沿って建つ 3棟の建物は全て総柱建物で、倉庫として建てられたのであろう。 建物と建物の間には石組溝がめぐり、石組の貯水桝なども見られる。 主殿南側の庭園は、土塁を背景として左奥に滝石組、右に大きな 立石を配置し、その前面に中島を擁する石組の池が造られている。 当初の池には滝から水が落とされていたが、ほどなく滝へ続く 導水路は埋められ、枯山水へと改められたようである。 公園整備に伴って、建物跡は遺構を土で覆って保護し、 その上に石や舗装材を用いて建物の規模を表現した。 また、庭園は後期の池に合わせて滝石組・護岸石などの 露出・修復を行い、築山などの地形の復元を行った。 (案内板より・絵図も) | ||
竪穴。 | 井戸跡。 | 庭園跡。 |
東側の土橋 | ||
外側から。内側は人がいて写せず。 | 土橋から北東側の空堀。 | 土橋から南側の空堀。土塁上に祠。 |
西側の木橋 | ||
こちらにも木橋が架かる。 | 木橋から南西の空堀を。 | 木橋から北側の空堀を。 |
内側から。 | 木橋の内側の右側の土塁。 | 西側から東側方面。 |
北側の土橋 | ||
(左&真ん中)土橋を外側から。 こちらの虎口には石垣で固められている。 (右)北側から北東へ伸びる空堀。 | ||
■高梨氏館
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