長野県 上原城 |
■上原城=見学自由 駐車場=無料駐車場 ■上原城諏訪氏館跡・板垣平=見学自由 駐車場=駐車スペースあり (2007.7.30現在) |
住所=茅野市ちの上原 (近いのは、中央自動車道 諏訪I.C) この時は、国道20号を南下し、上原頼岳寺信号を左折。 高架をくぐって、頼岳寺に突き当たって右折し、少しして左折、 次に右折、案内板に従って進んでいくと、上原城諏訪氏館跡・板垣平 で、その先を進んで行くと左側に上原城跡。 |
諏訪氏城跡上原城 | ||
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上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高978m)にある。 その遺構としては主郭・土塁・二の郭・三の郭・郭・空堀・物見石 等があり、上原城の中腹の小字板垣平(およそ1ha)には、居館跡がある。 この城は、北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城等を控え、 前方南には上川や宮川を隔てて干沢城に対し、諏訪上社(本宮前宮)を 見下ろした中世の典型的な山城である。築城の年代は詳らかでないが、 室町時代の後期、文正元年(1466)頃より、諏訪惣領家当主信満が この城の中腹に館を構え、上原郷に城下町をつくった。 その後、諏訪氏は信満-政満-頼満-頼隆-頼重の5代70余年に亘り、 諏訪地方を統治したが、天文11年(1542)7月、甲斐の武田晴信(信玄) によって滅ぼされ、惣領家諏訪氏は滅亡した。 以後、上原城とその館は、武田氏の諏訪地方統治と信濃攻略の基地として、 天正10年(1582)武田氏の滅亡まで約40年間続いた。 この城跡は、昭和46年5月27日、長野県史跡に指定された。 なお、三の郭にある金毘羅神社は、頼岳寺18世尊王が文化2年(1805)に、 頼岳寺の鎮守神として、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に 祀ったものである。 (長野県教育委員会・茅野市教育委員会の案内板より・絵図も) (左下=上原城跡、下真ん中=板垣平) | ||
上原城諏訪氏館跡・板垣平 | ||
この館跡は、上原城の大手側、標高845mの小字、板垣平に 位置し、面積はおよそ1haである。 室町時代の後期、上原城を拠点とした諏訪惣領家の諏訪信満が 文正元年(1466)頃から、この地に館を構え、上原郷に城下町を形成した。 その後、諏訪氏は信満-政満-頼満-頼隆-頼重の5代70余年に亘って、 諏訪地方を統治し、上原城下町は諏訪地方の政治、経済、文化の 中心として栄えた。 然るに、天文11年(1542)7月、甲斐の武田信玄によって諏訪氏は 滅ぼされた。諏訪地方を領有した信玄は、翌年、その重臣、 板垣信方を諏訪郡代に任命し、信方はこの館跡に普請と上原城下町の 区画割を行い、天正10年(1582)3月、武田氏の滅亡まで40年間、 この館を中心に上原城下町は諏訪地方最大の町として栄えた。 現在、この館跡のほぼ中央には井戸跡の一部が残存し、両側の 一段下には家老屋敷の地名をはじめ、その斜面一帯には、家臣団の 居住したと思われる段郭が残っている。 (上原城諏訪氏館跡石碑建立員会の碑文より) | ||
上原城跡の看板 | 板垣平の駐車スペース | 幟がいっぱい |
雨が降る中、まず諏訪氏館跡を見学。が、車から出ると、 7月下旬だというのに、寒い〜!急いで長袖を来た(^^;) | ||
上原城諏訪氏館跡・板垣平 | ||
畑や何も無い状態だけど、土塁や段差が見られるし、 石碑や碑文、木箱にパンフが入ってて嬉しかった(^^) | ||
案内板近くの登山口 | 車のいる道で上原城跡へ | 上原城跡 |
案内板近くに登山口があるけど、勿論、車で(笑) 雨だけでなく、雷が鳴りだして、かなり不安な中、上原城跡に到着。 | ||
諏訪氏城跡上原城の石碑 | 上原城跡の入口 | 主郭とはなれ山の空堀 |
入口付近の駐車場に車を止めて中へ。ふんわりとした霧の中、 至る所に置かれている数多くの石仏にゾクゾク…。 | ||
空堀の先を進んで | 巨石の横の道を歩いて… | 物見岩 |
素敵な空堀を見た後、圧迫感のある巨石の横の道を進むと、 そんなの目じゃないくらいでっかい岩が! | ||
二の郭 | 三の郭 | 三の郭下南西もゴロゴロ |
(左)物見岩の奥は二の郭で、その奥が主郭。 (真ん中)金毘羅神社のある三の郭。逆からだから暗くなってしまった。 | ||
主郭 | ||
■上原城主郭跡・・・この主郭跡は金比羅山の最高所にあり、標高978mである。
主郭の大きさは南北30m、東西20mほどで、三方に低い土塁跡を残し、
南西隅に虎口を開いている。
物見岩のある平地が二の郭で、金毘羅神社のある所が三の郭となり、
この城の中枢部である。
居館板垣平からの登路が大手に当り、途中所々に小郭を置いて、
幾重にも防御されている。
東面は上幅30mに及ぶ大空堀を隔てて、はなれ山の出郭があり、
その先を空堀で背後の山々から切り離している。
南面には畝形を思わせる竪堀を連続して施し、北面には
幅広い曲輪が置かれ、これらの曲輪はそれぞれ二の郭、三の郭と
武者走りと呼ばれる通路で連結され、全体に輪郭式の縄張で構成
されている。水の手は、背後の湧水と北西下の沢水が利用された
ようであるが、城内へ引水されたことも考えられる。
理昌院平の下方にもしっかりした郭が続き、周囲の尾根上にも
小郭が配されていて、小規模ながら堅固な備えで、戦国時代の
山城の姿をよく残している。(茅野市教育委員会の案内板より)
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■上原城(諏訪氏館跡・板垣平)
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