長野県 浦野館 |
■浦野館=見学自由 ■上田市立浦里小学校 駐車場=無し(この時は路駐) (2009.9.21現在) |
住所=上田市浦野 この時は、国道143号を西へ進み、 県道177号との仁古田信号を過ぎて、そのまま進んで、 浦野信号を右折。突き当たり(小学校手前)を左折。 小学校に沿うように走り、南西に土塁と説明板がある。 |
浦野館 | ||
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浦野氏は、平安時代末期の1150年頃に祢津(ねつ)氏から分かれ、
浦野字前沖内堀・下前沖などの土地を開発し、阿鳥川から水を引いて
開田し、開発所領とした。
鎌倉時代初頭1190年頃には「浦野」を名乗り、幕府の御家人になり、
日吉社領浦野庄(ひえしゃりょううらののしょう)の「地頭」になった。
その頃、領地を見渡せる現在の浦里小学校西南部分に堀と土塁を
巡らせた居館を築いた。
今、堀跡を示す水路が東西およそ100m、南北およそ60〜100mの地を
巡っている。土塁跡は南側と西側におよそ60mずつ残っている。
ここは「内堀」と呼ばれている。
南北朝時代から室町時代に浦野の谷の各地(上田市浦野から青木村)
に分族が発展し、諏訪上社との結びつきを深め「神氏(みわし)」となり
その一方で霧ケ峰高原元御射山(もとみさやま)に似せて、秋葉山の中腹に
東西80m南北60mの広場と、北側と西側の斜面に広場を見下ろすように
観覧席(階段状の桟敷)を設けて「御射山祭(みさやままつり)」
を行った。戦国時代に入ると、ここを改修して山城に用いている。
浦野は1541年に村上氏の攻撃を受け、1553年には武田氏の配下となる
変転があった。1582年、武田氏の滅亡後は分族のそれぞれが
400年余にわたる発祥の地浦野を離れ、真田・北条・小笠原・
松平氏などに分かれて仕え、今日に繋がっている。
(浦野宿創生事業推進委員会の案内板より)
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■浦野館
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