新潟県 御館 |
■御館=見学自由 ■御館公園 駐車場=無し(この時は路駐) (2010.7.29現在) |
住所=上越市五智1-22 この時は、名立区側から国道8号を東へ進んで、 見落としそうな小さい案内板に従って、県道468号へ左へ。 そのまま進んで、国府小前信号を過ぎて、少し先の 右側の大光銀行を過ぎた路地へ右折。 そのまま直進して、線路手前の右の公園。 もしくは、県道468号から西本町3丁目信号で、 県道123号へ右折。次の大きい交差点(信号あり)で右折。 1本目の路地へ左折(確か、案内板あり。)。線路手前の右の公園。 |
御館 | ||
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御館は、小田原城主北条氏康に敗れ、越後に逃れた
関東管領上杉憲政のために上杉謙信公が造営した
館で、後に憲政から関東管領職を継いだ謙信公が
政庁としても使用したといわれている。
御館は、古い地籍図から二重の堀に囲まれた東西
250m・南北300mの大規模な館であったと考えられている。
東京ドームの1.6倍の大きさだった。中心の郭は、四方を
堀で囲まれた東西120m・南北150mの規模で、ここ御館公園の
6倍の大きさであったとされている。発掘調査が行われた
40数年前に、越後の中世史を語る貴重な遺跡であることから、
中心部分が「御館」の名を冠した公園として残された。
御館跡の発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾のほか、
武具や刀剣などが見つかった。歪んだ銃弾は、御館の乱で
実際に発射されたものともいわれ、攻防の様子を今に伝えている。
JR線路から右手の独立した山が春日山城がみることができる。
(案内板より)
■御館の乱… 天正6年(1578)に上杉謙信公が没した後、2人の 養子景勝公と景虎公が跡目を争った「御館の乱」が起こった。 景勝公は、謙信公の軍事拠点の春日山城を、一方景虎公は 政治拠点の御館を占拠して戦ったのであろう。 翌7年3月、景虎公の立て籠もる、ここ御館が景勝公の 総攻撃を受けて落城。景虎公は妙高市の鮫ヶ尾城で自害。 2年にわたり越後の国を二分した争いは、御館の落城と 景虎公の自害により幕を閉じた。 この時、至徳寺などの名刹や府中の6千軒が焼けたと伝えられている。 (案内板より) |
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■御館
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