【蔵王堂城】

新潟県  蔵王堂城 にいがたけん ざおうどうじょう
■蔵王堂城(別名=蔵王城)=見学自由
■金峯(きんぷ)神社
駐車場=金峯神社の無料駐車場(2010.7.30現在)
住所=長岡市蔵王1丁目
この時は、カーナビに頼りすぎて、 メモれなかった…。

蔵王堂城
■堀直竒…ほり なおより(顕彰碑より)… 堀直竒は、天正5年(1577)12月26日、美濃国茜部に生まれた。 父は堀直政、母は妙泉院。直竒は豊臣秀吉に14歳から9年間を 小姓役として仕えた。 慶長3年(1598)、上杉景勝は越後春日山城から会津へ移され、 代わって越前から堀秀治が入国した。中越の要衝蔵王堂城へは、 秀治の弟親良、坂戸城へまた従兄弟の堀直竒が入った。 直竒は親良の隠退後、その子鶴千代が蔵王堂城主となると、 その後見役となり、蔵王堂・坂戸両城の領地を支配した。 慶長10年(1605)信濃川による川欠けのために城地を長岡の 地へ移す決意を固め、新城の縄張りを開始した。翌11年の 鶴千代の死後も直竒は蔵王に留まったが、忠俊の福島城築城の 手伝いに忙殺され、長岡の築城は中断された。 慶長15年、直竒は秀治の後を継いだ忠俊と、兄直清の讒言によって 突如国外に追放された。直竒は将軍徳川秀忠と大御所家康に直訴し、 その裁定によって忠俊は改易され、直竒も坂戸城から信州飯山 4万石へ移された。その後、直竒は駿府で家康に仕え、 大阪冬・夏の陣で大功をたて、元和2年(1616)には 8万石蔵王堂城主として故地へ返り咲いた。 同3年、融雪を待って懸案の長岡城築城にかかり、傍ら新潟浜村を 整備し、港町に作り上げ、新潟港と長岡間に信濃川通船の組織 「長岡船道」を作り配船もした。諸法制の整備中、同4年に 10万石村上城主に封ぜられ、代わって長岡へは牧野忠成が入部した。 直竒は村上でも城や城下町を整備し、家康死後は秀忠・家光2代の将軍に 仕え、信望が厚かった。大老土井利勝、天海大僧正、沢庵禅師らと 親交を重ねる中、寛永16年(1639)6月29日、63歳で没した。
案内図 金峯神社(二の丸) 蔵王の大欅
(真ん中)金峯神社の辺りが二の丸になるらしい。 (右)堀のすぐ近くにある大欅。どっしりして、パワーが貰えそう(^^)
堀と土塁
 (左)本丸を囲んでいた残存の堀と
 土塁を南東から。工事中で水が!
 (右)本丸の東側に掛かる橋。
 (右下)橋から北東の堀と土塁を。
 (左下&下真ん中)南側。
土塁(本丸側から)
(左)南側の土塁。高さがある♪ (真ん中)南側の土塁を西側から。 (右)土塁から南西側を。
堀底に見える○の形の水溜りが、水の出入口かな(^^)
土塁の上
土塁の上には、堀からも見える 標柱と立派な城址碑が立つ。城址碑の背後に、ガケ注意の看板が…(^^;)
本丸&堀直竒公の像
(左)土塁から本丸を見下ろして。 (真ん中)丹後守堀直竒公の像。大きい!! (右)南東側の入口。奥に堀直竒公。
長岡大橋
長岡大橋の街灯は、花火(右)と 市章でもあるフェニックス(下3枚)の装飾が♪ 花火の垂れ下がる姿が見事!

■蔵王堂城
工事の車両が多いから、「?」と思ったけど、 まさかまさかの工事中で、水が無〜い(@o@) 水の無い堀なんて、反対に凄いのかもしれないけど(笑) それにしても、土塁は素敵だった♪高さもあるし♪ 残存が見れてよかった〜(^^)

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