おかやまけん むさしのさと
■武蔵の里=見学自由
駐車場=無料駐車場
(写真)宮本武蔵生誕地の碑。
2009/8/9現在
住所=美作市宮本
この時は、鳥取方面から岡山方面へ国道373号を南下し、県道5号へ。案内板に従った。
武蔵は天正12年(1584)に生まれ、父を平田無二(無二斎)、祖父を平田将監といい、両人とも十手術の達人であった。 こうした武術家の家に生まれ育った武蔵は幼少の頃から武術家の家にたけており、13歳の時、 播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ち、それ以後諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、29歳で佐々木小次郎に勝つまで生涯に60余度の勝負をし一度も負けていない。 武蔵は剣の流儀を二天一流と称し、その兵法を五輪書、兵道鏡に残した。 また、書、絵、彫刻、工芸を好み禅の修業を重ね「枯木にもずの絵」等、今日重要美術品とされている数々の作品を残して、正保2年5月(1645)、 熊本の千葉城にて62歳で無くなり弓削の里に葬られた。(案内板より)
【左】いろいろな入口の門(^^)
【真ん中】研修センターと武蔵道場の字も。
【右】奥に見えるのが武蔵の像。
■武蔵の生家…宮本武蔵の生家は約60m四方のここ宮本の構にあり、大きな萱葺きの家であった。 昭和17年に火災に遭い現在の瓦屋となったが、大黒柱の位置は昔と変わらないと伝えられている。(美作市の案内板より)
【左】とても凛々しいお顔(^^)
【真ん中】新しいなぁ…と思ったら火災に遭ったのか。なるほど。
【右】鎌坂峠へ続く道。
関ケ原の戦いで新免伊賀守の手について宇喜多方に加担した武蔵は、戦から帰郷の途中、播州境の木戸を破って逃げた咎により、 姫路城から国境の目付に来ている武士に追われ、宮本村に帰っても身を潜めていなければならなかった。 武蔵が隠れていた「讃甘」の地名は、現在も「讃甘神社」にその名をとどめているが、武蔵の二刀流(二天一流)は、 この神社の神主の太鼓とバチにヒントを得て編み出したものだと伝えられている。(美作市の案内板より)
武蔵の里 2009.8.9記
鳥取の河原城を見学した後、岡山方面へ南下していると、武蔵の里という気になる所が。 雨が降っていたけど、折角なので寄ってみた。すると、河原城で見かけたカップルがいる! 偶然、同じ所を目指したなんて(@@)それとも、うちと同じようにたまたま寄ったのかな? この後、兵庫の佐用町を通らず、雨で凄い勢いの吉野川を見つつ美作市を南下し高速へ。 この日のニュースで、佐用町が洪水等で大変だったと…。 知らない土地では、分からないまま走るから、こういうのを聞くと怖い…(^^;)