【大阪城 その1】

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大阪府 大阪城 おおさかふ おおさかじょう
■大阪城=見学自由
■大阪城公園=入園無料
天守閣=600円
開館時間=9時〜17時(入館は16時半まで)
※春・夏、秋は、時間延長あり。
休館日=年末年始
駐車場=有料駐車場       (2006.11.24現在)
住所=大阪市中央区大阪城1番1号
この時は、上町筋の法円坂交差点を中央大通へ右折し、 府立青少年会館前信号を左折、その先を左へ、そのまま 進んでいくと、左側に大阪城駐車場(仮設駐車場)。 仮設なので、今後変更もあり…?ちなみに、この時は、9時 キッチリに開いたので、他県ナンバー(うちもだけど)は、 戸惑う可能性あり(笑)

大阪城 (案内板の写真をクリック→拡大)
明応5年(1496)、本願寺八世蓮如によって大坂御坊(石山御坊)が 草創されて以来、織田信長と本願寺との石山合戦、豊臣秀吉の 大坂築城、大坂冬の陣・夏の陣、徳川幕府による大坂城再築、 戊辰戦争による城中大火と、ここ大坂城の地は度々激動の 歴史の舞台となった。 (案内板より)

(※案内図は、左が北、右が南になってます。)

(下2枚)2014.1.7撮影。飛行機から見えた大阪城!上からなんて感激♪
左から千貫櫓、大手門、七番櫓跡、六番櫓、五番櫓跡、四番櫓跡。(パノラマっぽく…)
駐車場に車を止めてまず見たのが、 この角度。どれだけ凄い城だったのか、 実感させられる(^^)
六番櫓
■六番櫓… 二の丸南側を固める隅櫓の1つである六番櫓は一番櫓と構造形式が 殆ど等しく、濠側に石落しを2ヶ所設け窓腰狭間、石狭間も 多く開いて堅固な構えをなし、窓の内側には障子を建てて 内室を画し、居住構えが完備している。創建は寛永5年(1628)で、 天保年間(1830年代)に、大修理を経て、今に残ったものである。 (案内板より)
■南外堀石垣の抜け穴…昭和34年(1959)の大坂城総合学術調査で、六番櫓西側の 南面する石垣の中腹に石1個ほどの穴が確認された。 石垣の上からは15cm位下方で、堀の水面からは8m位 上方に位地し、現在では2m程進むと崩壊していて、 それ以上奥には進めなくなっている。明治以降に陸軍が 作った可能性が高いが、用途は不明。 (案内板より)
生国魂神社お旅所跡〜生国魂神社と大阪城〜
生国魂神社の歴史を文献史料でたどると、「日本書紀」孝徳天皇 即位前紀(645)に「生国神社の樹をきりたまふ…」とあるのが初出であり、 これは難波宮造営のためと考えられている。また「天文日記(1436〜54)」 の記載からも、大坂(石山)本願寺に接して生国魂神社のあったことが わかる。難波宮や大坂本願寺はここ大阪城の近くにあったことが 知られており、生国魂神社が古くよりこの辺りに祀られていたことがわかる。 その後、豊臣秀吉は、大坂城の築城に際して、天王寺区生玉町の現在地に 移築した。当時大坂城大手門は、生玉門と呼ばれたという。 この「お旅所」は昭和7年(1932)に新築されたものであり、 夏祭の渡御祭に用いられた。 (大阪市教育委員会の案内板より・絵図も)
大手門
城の入口は表側を大手口、裏側を搦手口という。 大坂城には大手口に大手門(幕末まで追手門とも称した) 搦手口は東に玉造門、西北に京橋門、北に青屋門を備えていた。 創建は元和6年(1620)で、天明3年(1783)に落雷によって 破損し、現在のものは嘉永元年(1848)に大掛かりな補修を したものである。門を入った溜り場を桝形という。 (案内板より)
大手門桝形の巨石
大手門枡形は、大坂城の正門の防御施設として、特に立派な石垣で築かれて いる。大手門正面の見付石は表面積およそ29畳敷(48u)、推定重量 108tもあり、城内第4位の巨石である。また、左手の巨石はおよそ23畳敷(38u)、85tで第5位にあたる。 これらの巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大坂城 再築の時に、瀬戸内海の島々から運ばれてきたものである。担当大名は、 最初は熊本藩主加藤忠広で、のちの久留米藩主有馬豊氏が築き直した。 (案内板より)
多聞櫓
大手門桝形の石垣の上に建ち、二の丸への出入り口となる大門を 組み込んだ構造をしている、この櫓は頭上に槍落しの装置があり、 出窓を構え、矩折に続櫓が附設されている。多聞櫓の名称の 由来については諸説があるが、一般には松永久秀が大和国 (今の奈良県)多聞城で初めて築いた様式とされ、塁上に築く 長屋状の櫓をさす。この櫓は現存する櫓中、最大の遺構である。 寛永5年(1628)に創建され、天明3年(1783)に落雷で焼失し、 嘉永元年(1848)に再建された。(案内板より)
千貫櫓
大坂城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和6年(1620)に 創建されたもので、昭和36年(1951)の解体修理の際、土台の木材から 「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の 棟上げ式の日がはっきりした。現存の城内古建築物の中で、 乾櫓とともに最も古いものである。名称の由来については、織田信長 軍の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、 あの櫓さえ落とせるなら、銭千貫文与えても惜しくはないと 話し合ったというエピソードが伝えられている。 (案内板より)

(左=千貫櫓&多門櫓、左下=大手門横から。
真ん中下=多門櫓をくぐってから。右下=西の丸から。)
千貫櫓の塀 西の丸の千貫櫓横から大手口&西外濠と坤櫓跡
どうして塀がこうなっているんだろう? 不思議〜(^^)
乾櫓
西の丸の乾(戌亥)すなわち西北の方角に建つ隅櫓で、 L字形、総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)という 非常に珍しい構造を持っており、昔は「三方正面の櫓」とも 呼ばれた。徳川幕府による大阪城再築工事の初期、 元和6年(1620)に小堀遠州の総指揮のもとに建てられたもので、 千貫櫓とともに、現存最古の建造物。(案内板より)  (乾櫓の手前=坤櫓跡)
西の丸庭園
古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、 秀吉没後、慶長4年(1599)には秀吉の正室「北の政所」 が一時住み、その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦まで、 徳川家康が移り住んだことが知られている。 徳川時代に入り、元和5年(1619)、内藤信正が初代の 「大坂城代」となり、翌元和6年(1620)すっかり築き直した。 その後、明治維新(1868)まで、70代の城代が交代で城の 管理にあたった。明治以降は軍用施設として使用されていたが、 徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」 跡地などを1つにまとめ、昭和40年(1965)西の丸庭園として 開園した。(案内板より)
西の丸庭園入口 西の丸庭園(城代屋敷跡) 大阪迎賓館
大阪迎賓館の裏側の道で、清掃員に 「10時前からこんな裏側の道に何の用だ。」 と言わんばかりにジロジロ見られた。
焔硝蔵
徳川時代の火薬庫で、この中に大量の黒色火薬が保管されていた。 創建は元和6年から8年(1620〜22)頃で当初は土蔵造りであったが、 青屋口内の焔硝蔵が万治3年(1660)に落雷で大爆発を起こしたため、 後に工夫が凝らされ、貞享2年(1685)に現存の石造りの焔硝蔵が 築造された。床、壁、天井、梁などすべて花崗岩で構築され、壁の 厚さは約2mもあり、屋根は寄棟造りの本瓦葺き、屋根の下は土を 積み固めている。石造りの火薬庫はわが国では他に例のない 貴重な遺構である。(案内板より)

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