さがけん あねがわじょう
■姉川城=見学自由
■姉川農村公園、天満宮
駐車場=無し。
(写真)溝口跡とクリーク。
2013/6/21現在
住所=神埼市神埼町姉川
この時は、横武城から向かった。
姉川城の位置は、リョーユーパン佐賀工場側から国道34号を北東へ進み、
姉川橋西信号を過ぎて、神埼姉川簡易郵便局の横の道を左折。
そのまま進むと、左側に姉川農村公園があり、その十字路を右へ進むと、
左側に(天満宮入口付近)に説明板があり、そこを左折すると館跡。
神埼市南部地域は、堀(クリーク)を縦横に廻らした浮島状の島で形成される環濠集落と呼ばれる空間が特に発達している。 姉川城跡は、神埼市西部、中地江川左岸の標高約3mの低平地に位置する堀(クリーク)を周囲に廻らせた城館である。 「館」という地名が残る最大規模の島を中心に、「奥館」、「妙法寺」、 「小路屋敷」という地名の島群と西地区に位置する「北ん屋敷」という地名の島群、 さらに中地江川沿いに形成される小規模な方形区画の島群の大きく3ブロックで構成される。 城跡の中核部である「館」地名の残る島は台形状の平面形態で、昭和初期までは土塁が廻らされていた。 島の南部の東西には「泉水」と呼ばれる入り江を配し、 南側には門を設け、建物を配置していることが発掘調査により判明した。 これまでの調査の結果、14世紀代には、「館」、「奥館」と呼ばれる島の中心部一帯に小規模な方形区画が形成され、 15世紀後半から16世紀前半には「北ん屋敷」などの地名が残る西方地区の島へと拡大していることが分かった。 16世紀から17世紀初頭には、ほぼ全域の島に生活の跡が確認され、現在のこの地形はこの時代に形成されたと考えられる。 姉川城跡に関する文献は、延文5年(1360)の高木貞房軍忠状 (「深堀家文書」)が初見で、「姉河・牟田城攻」の時に高木貞房が参加したことが見え、同年の龍造寺家平軍忠状、 龍造寺家経軍忠状(「龍造寺家文書」)には、龍造寺家平・家経が「阿禰河所々御陣」で宿直警護したことが記されている。 姉川城跡はこの頃に菊池武安が築城したと伝えられており、姉川氏はその後裔と称されている。 姉川城跡は、以上のように14世紀前半に成立し、15世紀後半以降に「館」を中心とした城郭となり、 17世紀初頭に城としての終焉を迎えたものと考えられる。(神埼市教育委員会の案内板より・姉川城跡に残るシコ名、航空写真も)
【左】「これより西へ約1.0km」の標柱。
【真ん中】1番上と同じ場所。
【右】真ん中の写真の左側。
あちこちで、クリーク(水堀)が見られる。
【右】真ん中の写真の奥。とても大きなクリークが広がっていた。
【左】公園内は、前日の雨で湿地帯!靴の中に浸透してビショビショ…(TへT)
【真ん中】姉川農村公園(写真右側)横のクリーク。
【右】姉川農村公園から少し離れた所の天満宮付近にある案内板。
【左】夜19時だからか、なんか怖い…。
【真ん中&右】重なるけどパノラマっぽく。正面が館跡。
姉川城 2013.6.21記
この辺りは、クリークがたくさん。前日降った雨のせいか、水量が多い。 クリーク沿いの家は、不安にならないかな?と思ってしまった(^^;) ところで、姉川農村公園に立つ説明板を写そうと公園内に入ったら、 ジュグジュグと地面が水を含んでる(@@;) 草があるから油断して、普通に歩いたら、靴の中まで水がしみてビショビショ(TへT) これだけ周囲が水を含むんだから、緩んでてもおかしくないのかな…。 暗くなるまでに、見学数をこなそうと思って、説明板、溝口跡、館跡の遠景等を見学して終了。 そういえば、夜19時だからか、天満宮の醸し出す雰囲気が怖かった…。ちなみに、見学時間は約10分。