さがけん いずみしきぶこうえん
■和泉式部公園=見学自由
駐車場=無料駐車場
2013/6/21現在
住所=嬉野市塩田町五町田
この時は、嬉野市役所塩田庁舎付近の県道28号と国道498号との嬉野市役所前信号で、
国道498号を南下し、五町田信号で県道208号へ右折(案内板有り)。
火の口信号で右折し(案内板有り)、県道346号を進み、
老人ホーム済昭園の手前の道を左折(案内板有り)。
正面に公園の駐車場案内があり、左折して上がっていくと駐車場。
平安期きっての歌人として名高い和泉式部は、杵島の福泉寺で生まれ、
すぐ塩田郷の大黒丸夫婦に引き取られて育てられた。
和泉式部は幼少名をお許丸といい、小さい頃から評判の器量よしで、利口この上もなく、
成長するにつれ誰に教わることもなく、歌を詠み始めた。
ある時、お許丸が木綿を摘む手伝いをしていると、
通りかかった勅使が駕籠の中から「この綿は売るのか」と問いかけたところ、
お許丸はたちどころに
『君が望む その木の錦は 川瀬住む 鮎の腹にぞ 宿りぬるかな』
と木の綿と鮎のこのわた(はらわた)をかけた即興の歌を詠じて応え、勅使を驚かせた。
また、即吟十句を詠じ、その優れた天性は村人達を感嘆させることしきりで、
今でもその場所が「十句」という地名となり残っている。
このようなお許丸の評判は京の宮廷でも知られるところとなり、
宮廷の召し上げたいとの要望に、大黒丸夫婦はお許丸の才能と将来を思い、応じることにした。
それはお許丸が9歳の頃だった。宮廷に仕えたお許丸は和泉式部となり、
優れた才覚と美貌のため、波乱に満ちた生涯を送るが、
宮廷の才女として紫式部や清少納言らとともに平安の歴史に残る存在となり、
五歌仙の1人に数えられている。
宮廷に仕えた和泉式部は1度も故郷へ帰ることはなかったが、
大黒丸夫婦や故郷を忘れることができず、その心情を
『故郷に 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらん』
と詠じた。この歌に天皇はいたく感動され、
褒美をとらせようとされたところ、孝養心の厚い和泉式部は
「故郷の年老いた父母が、余生を安心して過ごせるよう田圃を下さい。」
と申し出て、天皇は五町歩の田圃を下賜された。
それからこの塩田に五町の田圃−五町田の地名が起こったといわれている。(案内板より・絵図も)
【左】広くて安心。
【真ん中】和泉式部公園は凄く広く、いろいろある!
【右】雨が凄くて、白い線が…(^^;)
【左】正面が和泉式部像、明るい緑色の部分は草スキー。
【真ん中】和泉式部を詠んだ石。
【右】眼下に古代建築が見えた。
【左】大きい!凄くきれいな顔立ち。斜めだと少し厳しそう…。顔だけが金色に浮き上がる…。
【真ん中】君が望む その木の錦は 川瀬住む 鮎の腹にぞ 宿りぬるかな。
【右】ふるさとへ 帰る衣の 色くちて 錦の浦や 杵島なるらん
※歌碑は「に」ではなく、「へ」になっていた。
【左&真ん中】個人の方?の歌碑がいくつも置かれていた。
【右】説明板が無いので、どういった力石なのか分からなかった(^^;)
和泉式部公園 2013.6.21記
前日、雨が凄く降るなか来てみた(^^;)和泉式部の像だけ写せばいいか…と思ったけど、 雨が強くてうまく撮れず、説明板も気になるところ…。というわけで、次の日に再訪。 霧雨の見学に(^^)ところで、百人一首で馴染んでいた和泉式部が、ここに縁があるとはビックリ。 歌人としては漠然と知っていたけど、出自等が不透明だったから、少し、親近感がわいた♪ それにしても、和泉式部の像は大きかった(@@)! それに、顔だけが金色に浮き出ているから、きれいな顔立ちなのに、不思議な感じだった(^^;) そういえば、力石があったけれど、どういうものか分からず、気になった。