トロとまったり・tripのページ(寺沢広高陣)

佐賀県 寺沢広高陣

さがけん てらざわひろたかじん

■寺沢広高陣
駐車場=無し
【撮影日】2019/1/4、2019/1/3、2018/1/5、2017/8/16、2013/6/19。
【左】陣跡の北西側付近。(2018/1/5撮影)

2019/1/4現在

住所=唐津市鎮西町名護屋
標柱は、名護屋大橋を渡って国道204号を西へ、右側の観光ホテル大望閣の入口付近に標柱が立つ(入口付近にスペースあり)。 案内板は、標柱の観光ホテル大望閣から西へ、スーパー「まいづる9」手前(東側)の道を北へ。県道310号との分岐付近に案内板がある(付近にスペースあり)。 陣跡の北西付近へは、唐津市役所支所入口付近の道から向かった。(※上記のアクセスは選択肢の1つです。)

寺沢広高陣 ・ 案内板

■寺沢広高(1563〜1633)肥前国唐津城主…豊臣秀吉の側近として使える。 肥前名護屋城の築城に加わるとともに、文禄の役では、兵の輸送・物資の補給・船舶の運航などの実務を担当した。 慶長元年、楊方享(ヨウホウキョウ)・沈惟敬(シンイケイ)ら明国の講和使節を大坂城に伴い、和平に努力するが決裂。 秀吉は最出兵を命令し、慶長の役が始まる。秀吉の死後、関ケ原の戦いでは東軍に属し、その戦功により肥後国天草郡も与えられる。 唐津藩の初代藩主となる。しかし、子の堅高(かたたか)は島原の乱の責任を問われ、その天草郡を没収される。 寺沢氏は、この2代で断絶。(案内板より)

【左】道の駅 桃山天下市での歴史探訪の道の案内板。20番の旗の所に案内板がある。(2019/1/3撮影)
【右】歴史探訪の道の案内板の20番の旗の案内板。(2017/8/16撮影)

【左】写真は、道の駅 桃山天下市側から国道204号を東へ。スーパー「まいづる9」の東側の道の入口に名古屋経述の標柱が立ち、ここを左折して案内板方面へ。(2017/8/16撮影)
【右】(切り取り加工)スーパー「まいづる9」の東側の道を北上、県道310号との分岐付近に案内板(写真右側)がある。(2017/8/16撮影)

【左】案内板付近から。右奥が陣跡方面だと思うけど、遠景と言うには…?(2017/8/16撮影)
【右】案内板付近から。この時は、木々が遠景かと思っていた(^^;)(2013/6/19撮影)

寺沢広高陣 ・ 標柱

【左】国道204号を東へ。観光ホテル大望閣の入口付近に標柱が立つ。(2017/8/16撮影)
【右】(切り取り加工)名護屋大橋側から国道204号を西へ。写真右前に標柱。(2017/8/16撮影)

【左】観光ホテル大望閣の入口。(2017/8/16撮影)
【真ん中】夏場は標柱が分かりづらいな…。(2017/8/16撮影)
【右】「寺沢広高陣跡・肥前唐津」の標柱。ツツジがいい感じ♪(2013/6/19撮影)

寺沢広高陣 ・ 道中〜陣跡(南〜北西側)

(※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つで、自分用の覚書として詳細を。)
【切り取り加工】国道204号を名護屋城方面に西へ。右に陣跡を見つつ、唐津市役所支所入口付近の道から陣跡の北西方面へ。(2017/8/16撮影)

【切り取り加工】上の写真の入口方面を。名護屋城がよく見える♪ ちなみに、入口手前の家の装飾が凄くて、国道側にルパン達が立っている(^^)(2019/1/4撮影)

【左】(切り取り加工)上の写真のアクセスと反対側の名護屋城側から陣跡方面へ。こちら側から見ると分かりづらいな…。(2019/1/3撮影)
【右】国道204号から路地へ進んで。国道はルパン達がいて、こっちには真田丸…。(2018/1/5撮影)

【左】右の写真の左側。(2018/1/5撮影)
【右】(パノラマっぽく加工)陣跡の北西側付近。庭と同化してるけど、それっぽい雰囲気♪(2018/1/5撮影)

【左】上の写真から国道204号の入口方面。(2018/1/5撮影)
【真ん中】路地を北東へ進んだ先の右カーブ。陣跡でないかもだけど、土塁の様なものが。(2018/1/5撮影)
【右】真ん中の写真の奥側から。(2018/1/5撮影)

寺沢広高陣 2018.1.5記

今回は、佐賀県遺跡地図で位置を確認してから陣跡へ。 今回行ってみて思ったのは、案内板からの遠景って、見えて無いような気がした(^^;) とりあえず、陣跡の北西付近へ向かったら、雰囲気がある場所や土塁の様なものが見られた。

寺沢広高陣 2017.8.16記

前回と同様、変わりはないけど、折角なので標柱や案内板、遠景を撮影(^^)

寺沢広高陣 2013.6.19記

標柱の所から陣跡を見ると微妙…と思ったけど、名古屋経述陣跡付近に案内板があって、そこからの遠景がよく見えて良かった(^^)

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