【伊奈氏屋敷】

埼玉県 伊奈氏屋敷 さいたまけん いなしやしき 
■伊奈氏屋敷(伊奈氏陣屋)=見学自由
駐車場=無し(この時は路駐)  (2011.9.23現在)
住所=北足立郡伊奈町小室
この時は、上尾駅の北側の国道17号を南下し、 市役所前信号で県道150号へ左折。平塚信号で 県道5号へ右折。次にがんセンター入口信号で県道323号へ 左折。丸山駅の高架をくぐって、すぐ右折すると、その先の左側に 裏門跡と説明板。説明板の横の道を道なりに進むと、 二の丸の土塁。そのまま通り抜けると、表門跡。

伊奈氏屋敷
ここは、代官頭伊奈熊蔵忠次が築いた屋敷跡である。 伊奈氏は、信州伊那郡(今の長野県)の出身で、 忠次の祖父忠基の代に松平広忠(徳川家康の父)に 仕え、三河国小島(今の愛知県西尾市)の城主となった。 忠次は善政をしき、特に豊臣秀吉の小田原攻めには、 主君徳川家康の命で兵糧の輸送、荒廃した伊豆国(今の静岡県) の農村復旧等にあたり功績を挙げた。 天正18年(1590)、徳川家康が関東へ入国した時、忠次は これまでの功績によって、三河国小島の旧領と武蔵国 小室・鴻巣領1万3千石(1万石とも言われている。)を 与えられた。代官頭となった忠次は、中世以来城郭として 使われてきたこの地に陣屋を構えて、関八州の天領 を治め、検地の実施、新田開発、中山道どの他の宿駅の 整備、備前堤・川島大囲堤の築堤などに大いに活躍した。 さらに江戸幕府成立後は、関東及び東海道筋の支配にも 参画するようになった。 忠次及び長男忠政の死後は、二男忠治が元和4年(1618)に 築いた赤山陣屋(今の川口市)に関東支配の拠点が移り、 この地は忠政の次男忠隆系の旗本伊奈氏の屋敷となった。 屋敷跡の規模は、東西約350m、南北約750mで、当時を 偲ばせる土塁や堀が各所に良好な状態で保存されているほか、 見通しを悪くする為にわざと折り曲げた道等が現存されている。 「表門」「裏門」「蔵屋敷」「陣屋」等の呼称も伝承として 残っている。 (埼玉県教育委員会・伊奈町教育委員会の案内板より)      (左)丸山駅付近の壁にあった説明板の縄張図。 (右)全景。
丸山駅付近
(左)写真は、丸山駅前信号。
右側の壁に、伊奈氏屋敷の
説明板が設置されていた。

(右)左の写真から駅へ向かうと、
「代官屋敷跡・黒浜沼コース」の
大きな案内図が設置されていた。
写真は、伊奈氏屋敷付近部分を
切り取って。本当は、凄く広域。
裏門跡&障子堀跡 空堀
裏門跡と伝えられている所。 近年の発掘調査により、 虎口を造っていた事が分かった。 発掘された堀は、幅約5m、深さ2m の障子堀で、畝の高さは約1.5m。 (埼玉県教育委員会・伊奈町教育委員会の案内板より) 裏門跡の写真の奥の木々の
中に見られた空堀(^^)
屈曲した道 土塁 二の丸の土塁
(左)1番上の写真の反対側から。 (真ん中)左の写真の土塁♪ (右)土塁前に、伊奈氏居館跡の碑もある。
水堀跡 表門跡・遠景 景色
(左)今でも水が溜まっていた。 (真ん中)正面が表門跡。 (右)丁度、新幹線が通らないもんだなぁ〜(笑)

■伊奈氏屋敷
私有地が多いものの、これだけの土塁や屈曲した道、 門跡も堪能できたから満足〜(^^)

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