【岩槻城】

埼玉県 岩槻城 さいたまけん いわつきじょう
■岩槻城(別名=白鶴城)・岩槻公園=見学自由
駐車場=無料駐車場(数箇所) (2005.1.22現在)
住所=さいたま市岩槻区太田3-4
この時は国道16号を埼玉方面へ。 春日部市に入り、県道78号との交差点を過ぎて少しすると、 県道2号「岩槻市街」の案内看板があり、今回は右折。 道なりに進み岩槻橋を渡って2つ目の消防分署を左折。 そのまま進むと、左右に駐車場。左の入口がわかりにくい。 時の鐘は2号の渋江交差点を左折。曖昧だけど途中で左、でも車は×。 愛宕神社は2号から122号へ右折。少しして左にあった コインPを利用。少し戻って、左折すると 線路手前(大きな木が目印)右にある。 遷喬館は2号の市役所を左折、少し広い道へ右折。 そのまま直進して公民館の向かい側。左奥。

岩槻城 (案内板の写真をクリック→拡大)
岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に、築かれたといわれている。 江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となった。 戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張された。 本丸・二の丸・三の丸等の城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む 沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから 構成されていた。更に城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地等からなる城下町が 形成・配置され、その周囲を巨大など塁と堀からなる大構(おおがまえ)が取り囲んでいた。 この岩槻公園の辺りは、そのうちの新曲輪部分にあたり、その大部分が埼玉県史跡に指定されている。 新曲輪は戦国時代末の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた 小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化する為に設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という 2つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていた。 明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、 曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に 配置された2つの馬出し等、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されている。 (岩槻市の案内板より)  (右=鍛冶曲輪の白鶴城址碑)
岩槻城裏門
岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。 現状では、門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える 薬医門形式。間口約3m、奥行約2mであり、 向かって左側袖塀に門扉左に潜戸を付属。 屋根は切妻造で瓦葺き。 左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の 明和7年(1770)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを 奉行として修造され、文政6年(1823)に板谷官治らを奉行として 修理された事が知られる。数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも、 建築年代の明確な遺構として貴重。 廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、 明治42年(1909)以降、この門を保存してこられた 市内飯塚の有山氏より岩槻市に寄贈、昭和55年(1980)この岩槻城跡 に移築された。なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えられたもの。 (案内板より)
岩槻城城門・黒門
岩槻城内での位置は明らかではないが、木材部分が黒く塗られている事より黒門。 門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式の門で、桁行(幅)約13m、 梁間(奥行)約3.7m。屋根は寄棟造りで瓦葺き。 廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、 昭和45年(1970)この城跡に移築された。この間、浦和の埼玉県庁や 県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門等として、移転・利用された。 修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具等に、重厚な城郭建築の 面影を伝えている。岩槻城関係の数少ない現存遺構として貴重なもの。 (案内板より)
鍛冶曲輪内の沼にかかる八ツ橋 鍛冶曲輪
堀障子(新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀)
■堀障子…現在地は、新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀。 発掘調査の結果、堀底まで3m程埋まっており、 堀底には堀障子のある事が確認された。 堀障子は畝ともいい、城の堀の設けられた 障害物の事。堀に入った敵の移動を妨げたり、 飛び道具の命中率を上げる事等を目的として築かれたと 考えれ、小田原の後北条氏の城である小田原城(神奈川県)、 山中城(静岡県)や埼玉県内の伊奈屋敷跡(伊奈町)等からも 見つかっており、後北条氏特有の築城技術とみられている。 岩槻城跡では3基の堀障子が見つかっており、底からの高さ約90cm、 幅が上で90cm、下で150cmあり、その間隔は約9mあった。 この遺構の発見で、堀が戦国時代の終わり頃に後北条氏によって造られた事等 様々な事が判明した。(案内板より)
鍛冶曲輪の馬出し近くの空堀 新曲輪 新曲輪の野球場
愛宕神社の大構
戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。 この土塁と堀を大構(外構・惣構・土居)という。 城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さは約8kmに及んだという。 この大構は、天正年間(1580年代頃)、小田原の後北条氏が豊臣政権との 緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため、築いたものとされ、 城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果した。 廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、 愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。 (案内板より)  (右=大きな木の所が愛宕神社)
岩槻城下の時の鐘
寛文11年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造、 渋江口に設置された。 50年後の享保5年(1720)、鐘にひびが入った為、時の城主永井直信(陳) が改鋳したものが現在の鐘。鐘は1日3回つかれたとも言われているが、 江戸時代後期には、1日12回つかれていたようだ。 鐘楼は、嘉永6年(1853)に岩槻藩により改建されており(棟札銘)、 方13.1m、高さ2.1mの塚の上に建っている。 (岩槻市教育委員会の案内板より)
遷喬館(せんきょうかん)
遷喬館は、江戸時代後期の寛政11年(1799)に岩槻藩の 学者児玉南柯が私塾として建て、青少年の教育に 力を尽くし、後に藩校となった。建坪40坪(132u)、茅葺屋根平屋建、 生徒の収容数は40人であり、昭和32年1月現在の様に復元された。 江戸時代には、全国に約220校の藩校があったが、県内において 原形のまま保存されている藩校は、岩槻の遷喬館が唯一のもので貴重な 文化財といえる。南柯の子弟教育の方針は、文武兼備の武士を養成する事であった。 (埼玉県・岩槻市の案内板より)
←やっとの思いで見つけ出したら、工事中!!がが〜ん(@□@)
■遷喬館■ 埼玉県岩槻市本町4-8-9 /現在休館。 2006年頃に開館予定?
住宅街にある大手口 遷喬館にある裏小路 ■岩槻城
岩槻城へは行きつけるけど、他の3箇所が思ったよりわかんなかった。 上のナビもあっているかどうか…。時の鐘を探している途中、 大手口を見つけたりして、城の規模がどれだけ大きかったかがわかる。 …と感慨深いより、探すのに大変だった。車では大変かも〜。
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