河越館
(整備平面図写真をクリック→拡大)
|
河越館跡は、平安時代の終わり頃から南北朝時代の中頃までの約200年間の間、
武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主の河越氏の居館跡である。
河越氏は、桓武平氏秩父氏の流れを汲む一族で、平安時代の終わり頃、
この地に館を構え、河越氏を名乗った。
治承4年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵すると、
河越氏は初め敵対したが、後に御家人となって平氏討伐軍に参戦する。
この頃の河越氏の勢力は、重頼の娘が源頼朝の弟義経の妻に選ばれたことから
推し量ることが出来る。
恐らく輿入れの日、重頼の娘は、お供の者たちと河越館から都の義経のもとへ
向かったことであろう。ところが、後に義経と頼朝の仲違いから、
義経縁者である事が禍(わざわい)して、重頼らは滅ぼされ、
河越氏の勢力はここで一時衰える。しかし鎌倉時代中頃、
高野山に町石(ちょういし)を建てた事で知られる経重の頃には、
かつての勢力を回復しつつあった。鎌倉時代の後半になると、
館の中に時宗常楽寺が開山され、河越館は大きく変貌する。
後に時宗15代上人尊恵(そんね)が訪れ
「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた念仏算(ねんぶつふだ)を配り、
大勢の人々で賑わうこともあったようである。
応安元年(1368)、突然河越氏や高坂氏ら「平一揆(たいらいっき、ひらいっき)」が
河越の館にたてこもって鎌倉府に反旗を翻すが、あえなく敗れてしまう。
これ以降、河越氏は政治の表舞台からは姿を消し、
河越氏と館の関係も幕を閉じることになる。
戦国時代になると、関東管領山内上杉氏が川越城の扇谷上杉氏に対抗する為に、
かつての河越館を含むこの周辺に陣所(上戸陣)を構えた事が知られる。
現在指定地の西に残る土塁は、その頃の遺構と考えられる。
(川越市教育委員会の案内板より・想像図&整備平面図は案内板より)
(左)14世紀中頃の河越館想像図。
(右)※上が南なので注意。個人的に、想像図の右下の土塁が良かった♪
|
入口&説明板 |
(左&真ん中)通りからの入口に、駐車場までの案内板が立つので分かりやすい(^^)
(右)付近に説明板もある。
|
|
|
|
道中とT字路 |
|
|
|
|
|
(左上)入口から進むと、左側に
見られた土塁。写真は入口方面。
(上真ん中)入口から北上した所の
T字路(遠景)。両側に、土塁が♪
(右上)T字路を西側(手前)から。
右へ行くと、入口方面(南)で、
左端の道を奥(東)へ進むと館跡。
(左)上真ん中の写真の右側の土塁。
(右)右上の写真の奥の土塁を。
|
城址碑と土塁 |
|
|
(左)川越館跡の碑。
入口から北上した所のT字路で、
左折すると、館跡の碑が背中を
向けて立っている(^m^)写真は、
西側からT字路方面を向いて撮影。
(右)左の写真の右側に続く土塁。
城址碑の背後の土塁は、T字路へ
続く土塁を裏側から見たもの。
|
見学者駐車場 |
茶の木 |
河越館跡史跡公園入口 |
(左)広いから安心♪
(真ん中)館跡から天目茶碗、茶臼、風炉等の茶道具が出土したそう。
(右)茶の木付近。
|
|
|
|
北〜北西側&河越氏時代の堀跡(北西側) |
(左)北側から。
(真ん中)河越氏時代の堀跡(北西側)。
(右)北西側から南方面で、コの字型の堀跡がある。
|
|
|
|
河越氏時代の堀区画&道路跡 |
(左)コの字型で見られる。北面側。
(真ん中)西側の堀。写真左側が堀区画の外周を巡る道路跡。
(右)南西側。
|
|
|
|
区画内にあった建物跡 |
井戸跡 |
塚状遺構 |
(左)柱の位置をプレート、壁のラインをコンクリートで表示。
(真ん中)河越氏の屋敷区画内部にある井戸跡。
(右)蔵骨器とみられる遺物が出土したそう!
霊廟、納骨堂等の宗教的な施設があったと考えられるらしい。
|
|
|
|
山内上杉氏の陣所の堀跡 |
西側の墓所跡 |
(左)扇谷上杉氏の本拠地・川越城攻略の為に築かれた
山内上杉氏の陣所跡の時の堀跡を平面表示。
(真ん中&右)案内板によると西側は墓所跡なんだそう。
こうやってみると、結構、広い敷地だったんだなぁ(^^;)
|
|
|
|
常楽寺 |
|
|
(左)すぐ隣の常楽寺に、今にも
消えそうな「河越館跡」の木が、
立てられていた(^^;)ちなみに、
ここにも、河越館への入口付近に
あった説明板と同じものがある。
(右)館跡の芝生広場の横の鬱蒼と
茂った木の所が常楽寺。
|