【騎西城】

埼玉県 騎西城 さいたまけん きさいじょう
■騎西城(別名=私市城、根古屋城)
駐車場=無料駐車場       (2005.7.17現在)
※このページは、2005.1/22、7/17の写真を使用。
住所=加須市(旧北埼玉郡騎西町)根古屋633-2
この時は東北自動車道加須I.Cから国道125号、 忍城の黒門がある不動尊に寄り道をした為、遠回りだけど、 県道305号を左折。騎西町に入って、正能交差点を過ぎて、 少し走り県道38号へ左折。騎西3交差点を左折、進むと左に騎西城。 騎西城跡はこの近辺を走っていると、至る所にあるので、 ゆっくり走ってみるのもいいかも。(下の案内写真を拡大すると、 標柱杭の案内が書いてある。これは騎西城の近くにある。)

騎西城 (写真をクリック→拡大)
騎西(私市…きさい)城は、根古屋城とも呼ばれている。 この城がいつ誰の手によって築城されたのかは不明だが、 康正元年(1455)、上杉・長尾・庁鼻和(こばなわ)氏等が守る 騎西城を、古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)が攻略したのが 初見である。 永禄6年(1563)には城主小田助三郎(おだ すけさぶろう)が守る騎西城を、 上杉輝虎(謙信)が攻め落とした。 徳川家康が関東に入った天正18年(1590)、松平康重(やすしげ)が二万石で城主となる。 康重は大英寺…だいえいじ(騎西)を開基し、保寧寺…ほねいじ(日出安…ひでやす)に寺領を与えている。 その後、大久保忠常(ただつね)・忠職(ただもと)父子が城主となり、 玉敷神社を現在に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った。 寛永9年(1632)忠職の美濃国加納城(岐阜県岐阜市)移封に伴い廃城となった。
■掘り出された騎西城… 昭和54年からの発掘調査により、城郭・武家屋敷跡から戦国〜江戸初期の堀跡や 武器・武具・生活用具が出土している。城の周囲は二重の障子堀が巡り、 堀幅の最大は45mであった。激戦に備え総力で築いたことを物語っている。 出土品は多様で、国内外の陶磁器、矢じり・鎧金具・火打金等の金属製品 がある。このほか、大量の漆、・木製品も出土している。漆黒の兜・金色に輝く 馬の鎧、鶴文の漆椀に加え、下駄・荷札・呪符・護符など、いずれも城下の暮らし ぶりを鮮やかに甦らせる。
(左=植木が邪魔だなぁ。右=入口だけど、中には入れない。 2005.7.17撮影)
天神曲輪跡 二の丸跡 近くの沼 外堀の名残り?
■天神曲輪跡… 騎西城の鎮守として、天神社を祀った事によるものだろう。 (左=2005.7.17、他2枚=2005.1.22撮影)
騎西城土塁
江戸初期の絵図を見ると、東に大手門を配し、二つの曲輪・天神曲輪・ 馬屋曲輪・二の丸と駒の手状に構成され、本城(本丸)へ容易に攻め込まれないような 構造となっている。更に押し寄せる軍勢や弓矢・弾丸に対し、防波堤となるべく 土塁が大手から本城までの全周を、延々と巡っていた事がわかる。
寛永9年(1632)に廃城となった後の衰亡は著しく、寛保年間(1741〜44) には、本丸・二の丸の土塁が崩され、安政年間(1854〜60)に至ると、 城跡の竹林が開墾され、江戸末期には殆ど畑となった。 明治・大正期には、T字形に残るのみとなり、県道が城跡を 貫通した後の土塁はいっそう小さくなり、 昭和40年頃は僅かになった。 現在、土塁はここに残るのみで、当時の姿を伝える西側の高い部分が旧来の 土塁(高さ3m)、低い部分が在りし日の騎西城を偲ぶ為、 平成10年に復元延長したものである。 (2005.1.22撮影)

■騎西城
■2005.1.22記…
着いてみてビックリ玉手箱!!なんとっ。復旧工事の最中ですか〜(@□@) 全然知らなかった〜。しかも遺構は殆ど住宅街に…。見るだけでやめました。 でも、遺構の案内があちこちにあるのは、親切だな〜って思った。 そのうち、工事が終わったら見に行けるといいなぁ。
■2005.7.17記…
暑い中、復旧工事が終わっているかどうか不明のまま、車を走らせた(笑) すると、無事完成されてる♪うんうん。きれいきれい(^^)で、撮ったら終わり。 でも、騎西城の説明板がとてもきれいになっていて、読みやすくて良かった♪

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