埼玉県 喜多院 |
■客殿等=400円(五百羅漢と共通)/参拝=無料 観覧時間=(3/1〜11/23) =平日8時50分〜16時半・日祝〜16時50分 観覧時間=(11/1〜2/末日) =平日8時50分〜16時・日祝〜16時20分 休日=院内行事等ある為、事前に調べた方が無難。 駐車場=近隣有料駐車場 (2005.6.5現在) |
住所=川越市小仙波町1-20-1 この時は、千葉側からの埼玉の国道16号を進んで、 川越市に入って進んで行くと、小仙波交差点で 国道16号に左折せず、直進の県道15号へ。 次の国道254号との小仙波交差点でも県道15号へ 進み、少しすると案内板に従って 喜多院入口の信号を左折。 |
本堂 | ここから入場 | 渡り廊下を歩いて本堂へ |
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本堂の銅鑼が上手く鳴らせなくて、 何度やってもポフンッ…。 家光誕生の間、春日局の化粧の間が見る事が出来た。 | ||
渡り廊下 | しだれ桜 家光公お手植桜2代目 | 曲水の庭 枯山水書院式平庭 |
堂内の装飾にもビックリしたけど、 天井の家紋がいっぱいなのも気になった〜(^^) | ||
多宝塔 | ||
「星野山御建立記」によると、寛永15年9月に着手して翌16年(1639)に完成、 番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛門だったことがわかる。 この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治45年道路新設の為移築 (慈恵堂脇)されたが、昭和47年より復元の為解体が行われて昭和50年現在地に 完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に 宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせている。下層は廻縁を回らし、 軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の 亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。 円形の上層に宝形造の屋根をのせているので、組物は四手先を用いた複雑な 架構となっているが、これも美事に調和している。相輪は塔の頂上の飾りで 九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。この多宝塔は 慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。 (埼玉県教育委員会・川越市教育委員会の案内板より) | ||
鐘楼門 表(左&左下)&裏(真ん中&右) | ||
「星野山御建立記」によると、寛永10年(1633)に東照宮の側に鐘楼門を
建てたと記録している。その頃の東照宮は現在の慈眼堂の位置にあった。
そして鐘楼門再建の記録が無いところをみると、寛永15年(1638)の大火に
焼失を免れたのではなかろうか。桁行三間(5.45m)、梁間二間(3.64m)、
楼閣造袴腰付入母屋造で本瓦葺の屋根をもっている。
縁には勾欄をめぐらし、壁面には前面に竜、背面には鷹の木彫が二個づつ
はめこんである。またこの鐘楼に懸けられている銅鐘には元禄15年(1702)の
銘がある。(埼玉県教育委員会・川越市教育委員会の案内板より)
←原寸大の竜が室内にも飾ってあって、間近で見る事が 出来る。 |
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どろぼうばし | ||
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話。 ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、 川越藩の町奉行では捕まえる事が出来ない事を知っていた一人の盗賊が、 町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げ込んだ。しかし、 盗賊は寺男たちに捕らえられ、 寺僧に諭され悪い事がふりかかる恐ろしさを知った。 盗賊は、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間 に立直る事が出来た。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、 無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く 悪事を働く事無く真面目に一生を過ごしたという。 この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を 「どろぼうばし」というようになったという事である。 (埼玉県の案内板より) 凄い名前!! | ||
山門&番所 | ||
山門は四脚門、切妻造で本瓦葺、もとは後奈良天皇の「星野山」
の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には竜と虎、
裏に唐獅子の彫物がある他、装飾らしい装飾も無いが、全体の
手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天海僧正が
寛永9年(1632)に建立したもので同15年の大火を免れた喜多院では
最古の建造物である。山門の右側に接続して建っているのが番所で
間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、起屋根、瓦葺の小建築
で、徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。
(埼玉県教育委員会・川越市教育委員会の案内板より)
←ここに来るまでに五百羅漢があるけど見るだけ。 写真は抵抗あるし(^^;) |
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創建と変遷 | ||
喜多院は仙芳仙人(せんぼうせんにん)の故事によると、奈良時代にまで さかのぼるかも知れない。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を仙人の 法力により除き、そこに尊像を安置したというが、平安時代、純和(じゅんな)天皇の 勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、 本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り無量寿寺(むりょうじゅじ)と名付けた。 その後元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が 尊海僧正に再興せしめられた時、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田五十石と 寄せられ関東天台の中心となった。 正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、 後奈良天皇は「星野山(せいやさん)-現在の山号」の勅額を下した。 更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。 慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第廿七世の法統をつぐが、慶長16年(1611) 11月家康公が川越を訪れた時親しく接見している。 そして天海の意見により寺領48,000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に 工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代家綱の時東照宮に200石を下す等 寺勢を奮った。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立) を除き堂宇はすべて焼失した。 そこで3代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、 江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てた。 家光誕生の間、春日野局間があるのはその為である。 その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社等の 現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として 大切に保存されているのである。 尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっている。 | ||
鐘楼門の回りの壁の瓦 | 街灯の不動明王 | 喜多院を案内するだるま |
モチロン(笑) | 不動通りだけに装飾も(^^) | だるま市があるだけに案内板も(^^) |
■喜多院
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