【難波田氏館】

埼玉県 難波田氏館 さいたまけん なんばたしやかた
■難波田氏館(難波田城)=見学自由
■難波田城公園
駐車場=無料駐車場      (2011.9.25現在)
住所=富士見市下南畑568-1
この時は、柳瀬川駅の北側の 国道463号(254号)を北東へ進み、下南畑信号で 国道254号へ左折。難波田城公園の案内に従って、 信号を右折。次の信号を右折(右側に凄く小さい案内棒がある)。 その先の左側が難波田城公園。

難波田氏館
平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と 呼ばれる武士団が活動していた。その1つの村山党の中心に、 金子氏がいた。金子小太郎高範(たかのり)は、鎌倉時代の 承久の乱に参戦して討ち死にした。その恩賞として幕府から、 高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が 「難波田氏」を名乗るようになった。 南北朝時代には、羽祢蔵(はねくら)合戦で高麗経澄(こまつねずみ) の軍勢と戦って敗れたが、戦国時代になると難波田弾正善銀(ぜんぎん)が、 扇谷(おうぎがや)上杉氏の重臣として活躍した。 しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏と戦い、 敗れて討ち死にした。その後、難波田氏一族は北条氏の 家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配した。 しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた為に、難波田城は 廃城となった。 難波田城は江戸時代に作られた絵図などに描かれている。 城は最初、小さなものだったが、戦国時代に難波田弾正善銀が 活躍する頃に、大規模に改造されたと考えられる。 江戸時代には、城跡には修験寺院の十玉院が建てられた。 (案内板より・絵図も)    (下真ん中)難波田弾正歌合戦図。
駐車場(東側) 難波田氏館跡入口の碑 東門側の冠木門
(左)意外と狭い駐車場。ちなみに、南西側にもある。 (真ん中)駐車場の植え込みに。 (右)城跡ゾーンへの入口。
復元木橋 曲輪2(馬出曲輪) 曲輪2の西側の水堀
(左)曲輪2(奥)と曲輪3(手前)を結ぶ橋。 (真ん中)曲輪1(本丸)の出入口前方の曲輪。 (右)曲輪2の土塁が立派。
曲輪1
古絵図には「本城」と記され、 東西45m、南北30mの規模がある。 難波田城最古の14世紀頃の大形建物跡や、 多くの遺物が地下1.5mの部分から発掘された。 その後、城が拡張されるに従い、盛り土されていった。 曲輪を囲っていた土塁は、一部が残っているだけである。 (案内板より)
(左)本城門。(真ん中)難波田直治郎のお墓もある。 (右)難波田氏館跡碑。
曲輪3 菖蒲田(中堀跡) 曲輪4
(左)曲輪4から。 (真ん中)曲輪3の土塁を。手前が菖蒲田で、中堀跡。 (右)東屋は曲輪3で、右奥が曲輪4。
喰い違い虎口 追手門
(左)曲輪4、追手門側から曲輪3への喰い違い虎口。 (真ん中)曲輪3側から。追手門が見える♪ (右)南側の追手門。
十玉院墓地 行田蓮 水塚
水塚は、宅地全体を盛り土し、さらに一部を塚の様に 高く盛り、土蔵を建てるという洪水等の非常時に備えたもの。
古民家ゾーンへ 旧金子家住宅 難波田城資料館
ほんの少しだけ古民家ゾーンを見学。 資料館では、城の模型や城跡についてのパネルが見られていい感じ。

■難波田氏館
あまりにもきれいに整備されているので、 城跡に来たという感じがなくて…(^^;) そういえば、難波田城公園のイメージキャラクターは 「ナンバッタ」(^^)可愛いいスタンプがあったので、 押して帰った♪ちなみに、見学時間は約25分弱。

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