【青鳥城】

埼玉県 青鳥城 さいたまけん おおどりじょう
■青鳥城=見学自由
駐車場=無料駐車場      (2011.9.25現在)
※2011.9.24夕方の写真も使用しています。
(左)本郭の土塁。
住所=東松山市石橋
この時は、関越自動車道 東松山I.Cを下りて、 嵐山方面の国道254号を左へ。 きじやま信号(I.Cがついてたかな?)を右折。そのまま進むと、 ラブホ手前の左側に説明板と駐車場。そこから徒歩で見学。

青鳥城
城跡は東松山大地の南縁部に立地し、都幾川の河岸段丘を 南に見下ろす所に位置する。城跡は本郭と二の郭及び 三の郭から成り、史跡の指定範囲は本郭と二の郭の部分で、 土塁・空堀・水堀が昭和47年の発掘調査で確かめられている。 その規模は東西約550m、南北約300mを測る。 二の郭の土塁には城を守るために、北側の中央部でクランク状に 折れ曲がる折邪(おりひずみ)が認められる。 三の郭は一部が残存し、二の郭の外側へ同心円状に 拡がり土塁と堀が築かれていた。 この城郭は多曲輪形式といわれている。 城郭の配置(縄張)から築城の順序は、本郭を最初に造り、 その後に二の郭と三の郭が増築されたとみられる。 この築城方法は、嵐山町の菅谷館跡と類似している。 築城時代については、「源平盛衰記」に源頼朝が武州 月田川のはた青鳥野に陣をとる(寿永2年・1183)とあり、 本郭は12世紀末(平安時代末期)には築城が明らかである。 天正18年(1590)前田利家の軍に落城し、16世紀末に廃城となった。 築城当初の居城者は定かではないが、「妙昌寺縁起」には 建武元年(1334)に青鳥城主として藤原斎心入道利行が みえ、後北条時代には山田伊賀守直安が在城したと伝えられている。 (東松山市教育委員会の案内板より・絵図も)
駐車場 二の郭 本郭・東側の道
(左)説明板が立つ所の駐車場を利用。 (真ん中)前日の夕方に写したもの(^^;) (右)民家横の道。右が本郭。
本郭・東側
(左)車道から遠景。 (真ん中)左の写真の土塁と同じ。土塁上に祠が祀られていた。 右に写る道が、民家からの道。
(右)真ん中の写真から南へ向かった土塁。 土塁の少し低くなった所に、何か祀られているようだった。
本郭へ
(左)本郭南側。民家の入口としか思えない本郭の入口(^^;) (真ん中)土塁が♪ (右)上がって行くと低くなった所が。
本郭
(左)少し坂を上がると城址碑。 (真ん中)凄い臭いが漂う本郭。 (右)青鳥城関係らしいけど、お墓っぽいので遠景。
本郭・北側の土塁 本郭・西側の土塁 空堀
(左)1番上の写真と同じ土塁。 (右)西側の土塁の低くなった所から、奥をのぞいてみると、 空堀が見えた♪
三の郭
(左)三の郭の遠景。 (真ん中)三の郭の土塁と水堀の名残りのおため池。 墓地があるので、微妙な雰囲気…。
おため池(三の郭の水堀)&虎御石
この虎御石は、高さ375cm・幅70〜77cm・厚さ14cmで、 比企・入間地方最大の板石塔婆である。 鋭い三角形の山形、深い溝の二条線、区画された額部の上面に、 荘厳体の胎蔵界大日如来を表わす種子(アーンク)が 力強く彫られている。 種子の下には、深く雄渾な蓮弁が刻まれている。 蓮座の下には、四行の真言偈文、さらに三行の銘文が 刻まれている。「応安二巳酉卯月」とあることから、 虎御石は応安2年(1369)に建立されたものである。 (東松山市教育委員会の案内板より)
(左)写真右側に立つのが虎御石。 そういえばこの付近に、パトカー立ち寄り所の看板があったけど、 そんなにこの辺りって、物騒なのかな(^^;)

■青鳥城
2日間にわたって見学。初日、 駐車場は難なく見つけられたけど、 本郭への入口が分からず苦戦(^^;) 夕方5時位だったので、民家周りをウロウロしていると 怪しまれそうなので断念。 2日目、駐車場から民家の横の道は通らず、車道から向かった。 下調べをした本郭の入口へ向かうと「ここ?民家の入口 じゃないの?」って感じで。一言声を掛けたくても、 誰も周りにいなかったので、そのまま道を進むことに(^^;) すぐ本郭へ到着したので一安心(^^) 土塁が巡り、空堀も見られて大満足だけど、 凄いニオイ!!なぜか本郭だけが臭うから、 そのことにもビックリ(@@)その後、三の郭へ向かうと、 墓地が…。寂しい感じの所だった(^^;) パトカー立ち寄り所の看板もあったし。夕方に 来なくてよかった(笑)ちなみに、見学時間は約20分。

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