【山口城】

埼玉県 山口城 さいたまけん やまぐちじょう
■山口城=見学自由
駐車場=店舗の無料駐車場  (2011.9.25現在)
住所=所沢市山口1517
この時は、下山口駅の北側の県道55号を西へ進み、 山口城趾前信号を左折。左側に店舗の駐車場。

山口城
山口城は、平安時代末期から鎌倉・室町時代にこの一帯を 本拠とした武蔵武士の山口氏によって築かれた。 この場所は北に椿峰の丘陵が迫り、南は柳瀬川と、 湿地に囲まれた要害の地で、西側には鎌倉街道が通っていた。 城跡の規模は、東西約400m、南北約200mと推定される。 築かれた頃の大きさは不明だが、戦乱の時代に館を囲む 土塁(土手)や堀は徐々に広げられた。室町時代の 終わりには、複数の郭がつながった姿となった。 この城跡には石垣が無く、土塁の上に木や竹の柵を 造り、幅が広く深い堀を巡らせて敵が入るのを防いでいた。 戦国時代の戦乱によって落城し、江戸時代に入ると城跡は 畑や宅地として拓かれ、堀跡は溜池に利用された。 その後、道路や鉄道が開通し、元の姿は一部を除いて 失われた。現在、周辺には「堀の内」、「城上」、 「梨の木戸」といった城跡に関係する地名が残されている。 現在、敷地内には三基の土塁があり、土塁の規模は それぞれ異なるが、幅10m前後、長さ20〜30m、高さ3m 前後である。土塁の外側には堀が巡り、上部幅約4m、 底部幅約3m、深さ1.5〜2mの逆台形で、そこから水が湧き出して 沼地のような状態だった。土塁に囲まれた内部は、東側より 一段高く東西約20m、南北約32mの長方形の平地となっていた。
■山口氏…平安時代の末期に村山頼任の孫にあたる家継は、 この地に移り住んで地名の山口が名字になった。 山口氏は「保元物語」「吾妻鏡」等にもその名が記されている。 (所沢市教育委員会の案内板より・絵図も)
山口城址通り 城址碑 土塁
(左)信号にも「山口城趾前」♪ (真ん中)うまく写さないと、議員さんの立て看板が入る。 (右)かなり大きな土塁!
南側の土塁
(左)店舗の駐車場への入口側。 (真ん中)駐車場内からも、土塁は見える。 (右)駐車場の奥からも見ることが出来る。
南側の水堀 おまけ
(左)線路を挟んで店舗方面を見ると、少し水堀が♪ (真ん中)店舗側だと見えなかった…。 (右)丁度、電車が来た♪

■山口城
城址碑側の土塁を写していたら、大粒の雨が! 通り雨だったから、すぐ止んでくれたけど♪ それにしても、こんなに大きな土塁が残っているのは凄い! 見ごたえがあって大満足♪

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