しがけん ながはまじょうかまちめぐり
■三百石朱印地の境界石柱と城下町町名巡り
※勿論、全部ではなく一部の紹介です(^^)
駐車場=この時は豊公園の無料駐車場を利用
2006/5/1現在
住所=長浜市
この時は長浜城を見に来たので、彦根市から長浜市へ県道2号のさざなみ街道を北上し、
湖周平方信号を過ぎて、港町信号を左折、そのまま進んで行くと、右に駐車場がある。
豊公園の案内板が出るので、比較的分かりやすい。その駐車場から歩いていった。
【左】南東長浜領。何の建物の横だったかな…(^^;)
【右】南長浜領&旧長浜港跡。慶雲館近くで、三百石朱印地(長浜領)境界石柱の説明もある。
■三百石朱印地(長浜領)境界石柱…この石柱は、豊臣秀吉公が天正19年(1591)5月9日の朱印状で定めた 「三百石朱印地」の境界石柱を復興したものである。 秀吉公は造成した長浜町に、年貢免除の特権を与えたが、これを朱印地と呼んだ。慶安4年(1651)に、 この朱印地の内外を区別する為、石柱が建立されたが、ほぼ旧来の地に残っているのは、僅か5本に過ぎない。 今回この石柱を含め30本の石柱を、当時の建立地を推測して復興した。(案内碑より)
【左】ステーション通り。
【真ん中】民家に?!って感じで(笑)
【右】長浜浪漫ビール前。おしゃれな建物。
【左】凄く素敵な板塀が続く。
■下舟町(しもふなまち)…天正年間〜明治12年までの町名。豊臣秀吉公の城下町造営により成立。
船持ちや船乗りが多く住んでいた事に由来。江戸期は瀬田村領年貢地。(案内板より)
■大安寺町(だいあんじちょう)…
天正年間〜明治12年までの町名。豊臣秀吉公の城下町造営により成立。
奈良の大安寺の寺領であったことに由来する。江戸期を通じて朱印地。(案内板より)
秀吉公が長浜の湖辺に城を築き、港を整備し、町並みを作った。この事業を指揮し、人心を統率する役割を果たしたのが吉川三左衛門。 吉川三左衛門の名前は、江戸時代末期まで13代に渉って世襲され、現在の長浜の基盤を作りあげた。(第八連合自治会の案内板より)
天正年間〜明治12年までの町名。豊臣秀吉公の城下町造営により成立。船持ちや船乗りが多く住んでいた事に由来する。 江戸期を通じて朱印地。元禄8年の家数24、人口111。明治12年船尾原町の一部と合併、北船町となる。(案内板より)
北国街道から横浜町につながる東西通りの両側町。 今浜村・横浜村と共に、長浜の町が出来る前からあった瀬田村が、城下町に取り込まれたと考えられる。 元治元年(1864)の切絵図によれば、表通りから辻子という小路が屋敷裏に抜ける。(案内碑より)
【左】下村藤右衛門邸。【右】西本町。
■西本町…秀吉公の城下町は城の位置を定め、この本町を造成する事から始めたと考えられる。 中央を貫通する北国街道沿いに、町年寄下村藤右衛門邸があった。(案内碑より)
【左】安藤家屋敷。【右】北国街道。
■安藤家屋敷…江戸期長浜10人衆の1人の安藤家の屋敷。
■北国街道…中山道鳥居本宿を拠点とし、近江と北陸を結ぶ重要な街道で、
商家や旅籠、町役人衆の豪邸が軒を連ね、大名行列や、文人墨客が往来した。
【左】上呉服町。【右】中呉服町。
呉服町は、北国街道に沿った南北通りの両側町である。本町に向かって、上・中・下と命名されていた。 城下町造成当初は、呉服商が多く住んでいたと思われる。 上呉服町はその南に位置し、大手町と本町の通りをつなぎ、中呉服町はその中央に位置し、魚屋町と本町の通りをつなぐ。(案内碑より)
■旧中魚屋町通り…魚商人が集まっていた事にちなんだ名前である。 ここ以外では魚商売が出来なかったといわれる。(標柱より)
■武者隠れ道…この通りは北国街道の中で「武者隠れ道」と言われ、他の街道には見られず、 四ツ辻間が南北長さ六拾五間九尺(120m)各戸の屋敷と隣家の境界が、 不規則に出たり入ったりして、戦の時に身を隠したと古老より言い伝えられている。(案内板より)
「うだつが上らない」とはよく使われる言葉だが、「うだつ」とはもともと建築用語で日本家屋の屋根の両端を一段と高く上げ、小屋根を付けた土壁を意味する。 「うだつ」は防火や装飾などの目的で造られ、金持ちの家に限られた事から、景気や威勢の良い例として「うだつ」が上ると言われる。 「うだつ」が始めて造られたのは、室町時代、応仁の乱後、荒廃した京都に景気を取り戻したい一心で、民衆が考案「うだつ」を上げた。 その後、徳川時代の町人文化に受け継がれ各地に拡大され、現存している「うだつ」は富みの象徴でなく、日本史に登場する民家の自立自主の現れである。 (案内板より・絵図も)
■知善院町…中北町と東北町の境界から北に向かう両側町である。 羽柴(豊臣)秀吉公が長浜城下町造成にあたり、東北の鬼門守護として、小谷城から移した知善院が所在した。 その表門は、長浜城の旧搦手門といわれる。(案内碑より)
【右】知善院がある通り。
【左】城下町初期の最北の町。
【真ん中】大通寺。ここは大手門がある所。
【右】まさかこんな路地にあるとはっ。
【左】ここくらいなら、分かりやすい。
【真ん中】どこを歩いても、雰囲気がいいなぁ。
現存する長浜最古の町家であり長浜における標準的な町家と比較して、間口は広く大型である。 外観は、建ちは低く、卯建(うだつ)を高く上げた姿が印象的で、この建物の大きな特徴となっている。 現在は桟瓦葺であるが、緩やかな屋根勾配などから、当初は板瓦葺屋根であったとみられる。 なお、この住宅は、平成12年に四居氏から長浜市に寄贈を受けたものである。(案内板より)
【左】四居家住宅がある所。
【真ん中】古き良きアーケード街(^^)
【右】玄関付近だなんて物凄い所にある。
■大手片原町…天正年間〜元和年間までの町名。大手町等の市街地の周辺部に位置していたことによる町名。江戸期を通じて朱印地。 元和元年、彦根藩領になってから、北・中・南の3つの片原町に分町。(案内板より)
【左】大手片原町。【真ん中&右】東長浜領。
豊鑑巻一 長濱真砂
君が代も わが代も共に 長濱の
真砂のか須の つき屋らぬまで 中半兵衛
豊臣秀吉公は、天正元年(1573)浅井氏を滅ぼして小谷城主になったが、山の雪と寒気に悩まされ翌春より今浜城の建築に着手した。
地名を長浜と改め、小谷城下や近郷から寺院や商家を移し、楽市楽座の制度と300石の地租免除の恩典を与え、商工業の発展に力を尽くした。
昭和48年、長浜開町400年祭を挙行するに当たり、豊太閤の遺徳を讃え、竹中半兵衛の子重門の著する豊鑑より自筆の歌碑を刻む。(豊国神社)
長浜城下町巡り 2006.5.1記
古き良き時代を感じさせてくれる町並みが続く♪
歩きながら復興された「三百石朱印地」の境界石柱、旧町名を見つけたりのも楽しかった(^^)
境界石柱は30本だけど、さすがに全部は写せないので、これぐらい(笑)
素敵なお店もたくさん並んで、散策するのが楽しかった〜(^^)
(写真)溝の蓋には瓢箪が見られた。