静岡県 蛭ヶ小島 |
■蛭ヶ小島=見学自由 ■蛭ヶ小島公園 駐車場=無料駐車場 (2008.2.16現在) |
住所=伊豆の国市四日町 この時は、国道136号を南下し、八坂神社信号を左折し、県道133号へ。 進んで行くと、案内板があるので県道136号へ右折し、 少しして案内板に従って右折、すぐ左側に公園と駐車場の入口がある。 |
蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡) | ||
---|---|---|
このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島
(現=伊豆の国市四日町、以下同。)
といい、平治の乱で敗れた
源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝(ひょうえのすけよりとも)配流の地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残りをとどめてか、近在には古河・和田島・
土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が
点在し、その1つが、この蛭ヶ島であったことが想像される。
永暦元年(1160)14歳でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)
34歳で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、
配流20年間における住居跡などの細部は詳らかではない。
しかし、「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、
山木攻め(頼朝旗揚げ)
の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に
居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの
約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。 当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を 果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の 著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、 韮山町の有形文化財に指定されている。 (韮山町教育委員会の案内板より) |
||
頼朝と政子(梛の葉の縁結び) | ||
北条時政が大番役の1人して京に上り、伊豆を留守にしている間
(1177年頃)、31歳の源頼朝と21歳の北条政子は恋に落ちた。
源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると、面倒なことになると
考えた時政は、政子を伊豆国の目代である山木判官平兼隆の元に
嫁がせようと企てるが、祝言の晩、政子は山木館を脱出し、熱海の
東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込んだ。
当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山に
こもっていたので、平兼隆も北条時政も手出し出来ず、政子の
したためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と
相会することができたのである。かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の
保護によって、そこでめでたく夫婦になることができた。 近世中期の投節(なげぶし)のひとつに、 ♪こんどござらば持て来てたもれ、伊豆のお山のなぎの葉を。 という歌がある。 「今度、おいでになるときには、伊豆のお山のなぎの葉を持ってきて 下さいね」という願いのうちに、「それをお守りにしたいから。」との 意が込められている。女の方から男に言った言葉である。 当時の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると、 願い事が叶う(結ばれる)とされていた。 「伊豆のお山」とは、伊豆山権現のことである。 源頼朝と北条政子の熱烈な恋愛は、伊豆山権現で成就したのだから、 この故事に倣って梛の葉は、当時の娘達の憧れであり、 願いであったことであろう。梛を鏡の裏のお守りとすることは、 寛永の頃から享保の頃まで流行したようである。 (説明より) |
||
伊豆の国市 歴史民族資料館 | ||
この民家は、旧韮山町土手和田地区に江戸初期から続く 上野家の住宅で、記録こそ無いが18世紀中頃以前に建造されたものと推定 される。軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに 建つ2本の太い柱は棟持柱となって上までのびている。 この型式は、重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので、 現存する庶民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い型式である。 昭和50年1月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。 その後、昭和52年12月20日、静岡県の有形文化財(建造物)に、指定された 事を契機に、町は国庫及び県費の補助を受け、歴史民族資料館として 昭和54年3月30日解体、移築復元したものである。 (文化庁・静岡県教育委員会・伊豆の国市教育委員会の案内板より) | ||
蛭ヶ島の夫婦 | 時計 | 富士山 |
初々しい姿(^^)時計の下には、 これと同じ姿が切り絵で飾られていた。 この時、ちょうど富士山がきれいに見えた! | ||
歩道には… | ||
歩道を歩いていると、頼朝に関係したこと、 韮山名物などのイチゴのイラストが、ポツポツとあって楽しい(^^) | ||
■蛭ヶ小島
|
【 静岡のもくじ 】 | ■ 上へ ■ |