静岡県 北条氏邸 |
■北条氏邸(北条氏館)、円成寺跡 ■守山西公園 駐車場=? (2008.2.16現在) ■北条政子の産湯の井戸(伊豆の国市寺家) ■成福寺(伊豆の国市四日町 ) も紹介。 |
住所=伊豆の国市寺家守山 (この時は、伝堀越御所の後で行ったので、) 国道136号を北上し、願成就院への路地を過ぎて、 JA伊豆の国北条のそばの信号を左折。そのまま進んで行くと 右側に伝堀越御所で、そのまま川沿いの道に出て、左折。 すぐに守山西公園。工事中みたいだったので、 すぐ脇に止めて、説明板だけ写した。 |
北条氏邸 | ||
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北条氏邸跡は、鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館が
あった場所である。狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっている
所である。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家・四日町付近)は、
平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所である。
北条氏邸跡は武士の地方での生活を知ることが出来る遺跡として極めて重要なのである。
1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘達は鎌倉から韮山に戻った。
そして、一族の中の円城尼(えんじょうに)という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、
北条氏の冥福を祈ったのが円成寺(えんじょうじ)である。
円成寺は室町時代にも尼寺として続き、上杉氏の一族の女性が尼として
入ったことがわかっている。現在の発掘調査では、円成寺に関連する池や
溝が見つかっている。
■かわらけ… 中世の遺跡からたくさん見つかる素焼きのお皿である。一度使うと、 シミがついてしまうので、1回限りの使い捨てであった。そのため、きれいで贅沢な 容器として、儀式や宴会で使用されたのである。かわらけを何百個も使う儀式や 宴会を開けることが、当時の武士や公家の自慢だったのであろう。北条氏の 館では、京都風のかわらけも出土している。京都風の作法で宴会を行っていたのかもしれない。 ■宝珠… 北条氏邸の発掘中に発見された直径・高さ約2cmの水晶製の玉である。 先がとがって桃のような形をしている。これは、仏教に関係する形をしているので、 円成寺の宝物であった可能性がある。(案内板より) |
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成福寺(じょうふくじ) | ||
■成福寺… 鎌倉幕府8代執権北条時宗の第3子(幼名満市丸)北条正宗が 開基と伝えられている。正宗は北条氏一族の菩提を弔うため、 正慶2年、この地に一宇を開創した。政宗の長子、宗仁がこれを 修造して成福寺とした。本堂北側には北条氏一族の供養塔がある。 (案内板より) ■成福寺と北条館・堀越御所… 源頼朝をもりたて、鎌倉幕府の基礎を築いた北条氏の居館は、 守山の麓から成福寺を含む広大な地域を占めていたといわれ、 地籍図にも御所の内、築山、中之島等の字名があり、また成福寺 境内には土塁、堀、水路などの遺構が残存している。 北条時政が政子と頼朝の新居として建てた別邸(吾妻鏡による)は、 丁度この辺りであったと言われている。 当寺から東へ直行する道は、頼朝配所の地とされる蛭ヶ小島に通じ、 逆に西行すると狩野川対岸の江間の小四郎義時(政子の弟)の 居館跡に至るので、これを北条大路の名残りとする説がある。 当寺門前を南北に走る小路は、往時の下田街道で、農業構造改善の 区割整理以前は、田方平野の条里は全てこの方向と一致している。 室町時代になって、長禄元年(1457)足利義政は、古河公方への対抗策 として、弟政知を伊豆に配置したが、政知の居館・堀越御所も、 当寺付近であるといわれ、旧北条館跡の一部が復興利用されたものと 思われる。当寺の境内全般にわたって、土器類や古瓦の破片が出土し、 当時を偲ばせている。(案内板より) |
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北条政子の産湯の井戸 | ||
北条政子 二位尼 保元2年8月(1157)時政の長女として、 この地に生まれる。源頼朝の室。 大姫、頼家、乙姫、実朝の母。 安産祈願。(案内板より) 伝堀越御所からすぐ近くの産湯の井戸。 (左)北条政子の産湯の井戸の碑。 |
■北条氏邸
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