静岡県 舞坂宿 |
■旧東海道 舞坂宿 駐車場=無し (2009.3.20現在) ←東海道舞坂宿脇本陣 |
住所=浜松市西区舞阪町舞阪 この時は、浜名バイパスでない国道1号を西へ進み、 新町信号で左斜めへ入って旧東海道へ。 その通りに常夜燈や脇本陣などがある。 |
見付石垣 | ||
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この石垣は、舞坂宿の東はずれに位置している。
石垣の起源の詳細は明らかで無いが、宝永6年(1709)の
古地図には既に存在している。
見付は、見張所にあたり、大名が通行の時などには、
ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを
監視するとともに、治安の維持にあたった所である。
(舞阪町教育委員会の案内板より)
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一里塚跡 | ||
江戸幕府が日本橋を基点にして街道に一里塚を築かせたのは、
慶長9年(1604)とされる。
天保年間の宿村大概帳には、舞坂宿は江戸より67里16町に位置して
おり、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。
しかし、古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が
枝を四方に繁らせていたというから、幕末の頃には榎の木が植わって
いたと解釈してよいだろう。
なお北側の一里塚は、土地台帳に町有地として僅かに名残を
留めているのみである。
(舞阪町教育委員会の案内板より)
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新町 常夜燈 | ||
ここの常夜燈は正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王(つしまごずてんのう)、
南面が両皇大神宮、東面が文化12年乙亥正月吉日と
彫られており、文化12年に建立された事が分かる。
江戸時代の舞坂はよく火災に見舞われ、特に文化6年(1809)
には宿場の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をしている。
当時、火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の
願いにより、この常夜燈が建立されたもので、その世話は
現在も地域の人達に引き継がれている。
(舞阪町教育委員会の案内板より)
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仲町 常夜燈 | ||
東から来ると、2/3番目。(右)常夜燈と宝珠院と秋葉山を祀る祠。 |
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東海道舞坂宿脇本陣 | ||
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西町 常夜燈 | ||
舞阪には往還道路沿いに3つの常夜燈があるが、
ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が
津嶋牛頭天王(つしまごずてんのう)、南面が文化10年2月吉日、願主西町中、
と彫られており、この常夜燈は文化10年に建立された
ことが分かる。
舞坂宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を
焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をしている。
当時、火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の
願いによりこの常夜燈が建立されたもので、
その世話は現在も西町の人達に引き継がれている。
(舞阪町教育委員会の案内板より)
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北雁木(きたがんげ) | ||
ここは江戸時代、新居宿への浜名湖今切渡しの舞阪宿側の渡船場跡で、
明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて
構築された。その後、江戸時代には災害で幾度か
修復されている。両側の石垣の白い部分は、
昭和28年の台風で石垣が崩れた為、積みなおしたものである。
雁木とは階段状になっている船着場のことをいうが、
地元では「がんげ」と昔から言っている。
舞坂宿には三ヶ所の渡船場があったが、1番南側は主に
荷物の積み下ろしをした渡荷場(とうかば)。真ん中は
旅人が1番多く利用した主要渡船場で本雁木(ほんがんげ)と呼ばれている。
この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用した所で、
往還から幅十間(約18m)の石畳が水際まで敷き詰められている。
(舞阪町教育委員会の案内板より)
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灯明台 | 灯明台 | 弁天橋 |
灯明台があちこちに(^^) | 舞坂宿と書かれた灯明台。 | 弁天島へ向かう橋。 |
弁天島シンボルタワー | 浜名湖 | 浜名大橋 |
舞坂宿と書かれた灯明台付近から。 夕方6時前、風が強くて寒かったけれど、凄くきれいだった〜(≧▽≦) | ||
■舞坂宿
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