静岡県 大平城 |
■大平城=見学自由 駐車場=道路沿いに無料駐車場。(2009.3.21現在) |
住所=浜松市浜北区大平 この時は、国道362号を北区から浜北区へ東へ進み、 麁玉小南信号で県道68号へ左折。踏切を越えて約4km位、 城址橋を過ぎて右側に駐車場がある。 |
大平城 | ||
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大平城は、南北500m、東西400mの南北朝時代の山城 (尾根式複郭型山城)である。現在、樹木に覆われて いるため、外観では普通の山にしか見えないが、山の南側は 複雑に谷が入っており、北側と西側は断崖となっている。 また、城の南側前方には灰ノ木川が流れ、天然の堀になっている。 東側は尾根続きとなっている為、大規模な堀割が造られている。 城は、自然地形を利用して、曲輪を縄張しており、南城と北城の 二区画に区分され、一城別郭の形態を成し、北城が中枢部で、 南城は二次的機能を持っていたと考えられる。 大平城は、南北側についた引佐町にある三嶽城を本拠とする 井伊氏の支城の1つとして築かれた。井伊氏は、三嶽城を中心に、 南を浜松市の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と 支城を固めた。 井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良(むねよし)親王を迎え、 遠江国の南朝勢力の中心となった。 大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰(こうのもろやす)率いる 北朝軍の攻防戦は、暦応2年(延元4年・1339年)から 翌3年(興国元年・1340年)にかけてくりひろげられた。 この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編 裏書」に詳しく書かれている。 この資料を要約してみると暦応2年7月22日、北朝方の高師泰(越後殿下)の 軍が大平城に侵攻し、高師兼(こうのもろかね…尾張殿)の軍は 浜名方面に侵攻した。 7月26日に鴨江城が落城し、10月30日に千頭峯城が落城した。翌年の 暦応3年正月30日に三嶽城が落城した。そして、8月24日に大平城が 高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城した事が 書かれている。こうして南朝方は、遠江国での拠点を失い、宗良親王は 信濃国へ落ちていった。その後、大平城は歴史の上にも、記録の上にも 登場する事はなかった。 (大平城を研究する会・監修:文学博士 小和田哲夫氏の案内板より) (右)出曲輪から見たもの。 | ||
案内板 | 五体力神社の石段 | 石段横の城址碑 |
道路沿いの案内板。 | 道路を挟んだ桜がきれいだった♪ | 石段横の城址碑。 |
出曲輪 | 下りて… | 堀切?大手口? |
五体力神社から進むと出曲輪。 | 大手方面へ向かうと急な道が。 | ここでワラビを発見(笑) |
大手道? | 大平城址碑 | 本曲輪の土塁 |
右上の写真付近から。大手道? | 本曲輪下。もう1つはお墓だったっけ? | 城址碑から本曲輪を見上げて。 |
本曲輪 | 南曲輪 | 北曲輪 |
木々が繁ってて進みにくかった…。 | こちらも分かりづらくて…(^^;) | 本曲輪よりも低いので見下ろして。 |
東曲輪 | 空堀 | 東尾根曲輪 |
(左)本曲輪よりスッキリ。 (真ん中)東曲輪と東尾根曲輪との空堀。1番上の写真もここ。 (右)空堀から見上げて。 | ||
西曲輪 | 西曲輪の北側(多分) | 西曲輪の北側の空堀(多分) |
また本曲輪へ戻って、西曲輪へ。 西尾根曲輪の後に、北側に行ったはず…。曖昧 なので、(多分)を表記(^^;) | ||
西尾根曲輪方面へ | 西曲輪と西尾根曲輪の空堀 | 西尾根曲輪 |
西尾根曲輪方面へ向かっていると、 川らしきものが(^^)そういえば、西尾根曲輪の標柱が倒れてたっけ(^^;) | ||
■大平城
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