【修善寺城】

静岡県 修善寺城 しずおかけん しゅぜんじじょう
■修善寺城=見学自由
■城山
駐車場=無し(※この時は路駐) (2011.2.27現在)
(写真)主郭の土塁と石積み。
住所=伊豆市本立野(ほんだちの)
この時は、国道136号を北上し、天城北道路に入らず、 下田街道を進み、右斜めへ。道なりに進んで、郵便局を左折。 修善寺東小学校を通り過ぎて右折。プール付近の反対側の細い道が 城山神社へ向かう道。細い道からは、車で行けそうになかったので、 邪魔にならないような場所に、路駐した。 (※くれぐれも自己責任で…。)

修善寺城
城主畠山国清は、関東管領足利基氏の執事として重要な 地位を占めていたが、ある事情で基氏と争うようになった。 国清は、康安元年(1361)に、弟尾張守義深に式部大夫 及び一族郎党500余騎を引き連れて、元の知行地伊豆に引き上げた。 そして、ここ修善寺の山に城を築いて、基氏に反旗を翻した。 国清が伊豆に来て1番頼りにしていたのは、柿木の城主狩野氏で あったが、狩野氏は、主にそむいた国清は人道上許せぬと、 一切の協力を拒んだ。この有様を知った基氏の軍兵三万は 城を遠巻きにし、兵糧攻めの戦法を取った。城兵は糧食つきて 苦戦に落ちいった。この時、基氏より降服の勧告があったので、 国清は士卒の身を案じて、遂に基氏の軍門に下った。時に、 康安2年9月10日の事である。国清は後に西国の旅路で63歳の 生涯を閉じたと伝えられている。 春秋は流れて、天正18年(1590)に織田信雄が韮山城攻撃の際、 この城に修築を加えたことが、豆州志稿に記されている。 (本立野区・本立野老人会の案内板より)
入口 城山神社 進んで…
(左)正面の細い道が城跡への入口。さすがに、 狭いので徒歩で(^^;) (真ん中)今回は、神社左側の道から。
曲輪かな? 畠山国清古戦場の石碑 主郭方面
(左)竹藪の中に曲輪のようなものが。 (真ん中)逆光で、全く写らず(^^;) (右)南西側の曲輪から主郭方面。
南西側の曲輪
(左)南西側の曲輪には、ロープウェーの名残の休憩所が。 (真ん中)南西側の端。 (右)土塁も見られた♪
主郭
(左)テレビ中継塔が立つ主郭。こちらは、低い曲輪。 (真ん中)石積みが♪ (右)石積みが見られる長い土塁。
上へ… 城山公園の碑 井戸跡
(左)1段高い曲輪へ。 (真ん中)祠との間に…。 (右)畠山国清の建立城跡、城山城の井戸跡の看板と井戸跡。
景色 遠景
(左)凄く眺めが良かった♪ (真ん中&右)鉄塔やテレビ中継塔の先っぽが見えるので、分かりやすい。

■修善寺城
駐車場が無くて、どこにとめればいいか、困ってしまった(^^;) 土塁や石積みが見られたのは良かったけど、ちょっと物足りない 気が…。ちなみに、見学時間は約40分。

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