千葉県 生実城 |
■生実城(別名=北小弓城)、生実藩陣屋跡 =見学自由。 ■生実神社 駐車場=無し(この時は路駐) (2009.2.11現在) |
住所=千葉市中央区生実町1551、他 この時は、京葉道路 蘇我I.Cを下りて国道16号を南下。 生実信号で県道66号を誉田方面へ左折、 生実町五差路交差点を左折、次に生実池信号を右折。 少しすると左側に生実神社がある。 |
生実城(北小弓城)跡と生実藩陣屋跡 | ||
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ここ生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する 重要な拠点であった為、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられた。 生実城(北小弓城)は、天文8年(1539)千葉氏の重臣・原胤清(はら たねきよ)が、 ここ生実神社一帯に築城したとされている。 天正18年(1590)原胤栄(はら たねひで)が、徳川家家臣・酒井家次との 「野田十文字野戦い」で戦死するまでの52年間存続した。 その後、一時幕府の直轄領となったが、寛永4年(1627)森川出羽 守重俊が生実藩1万石の藩主となり明治初頭まで生実城の一郭に 陣屋を構え、11代243年続いた。 生実城跡の南側を通過する都市計画道路の整備に伴う発掘調査により、 戦国時代から近世に至る多量の遺構・遺物が検出され、いままで 文献のみでしか知ることができなかった生実城の素顔が明らかになってきた。 これまでに、戦国時代から近世まで使われた堀跡、4体の人骨を埋葬した 地下式礦(ちかしきこう…墓)・井戸跡・建物跡などの遺構と、 「享禄4年」(1531)銘のある庚申待板碑や多数の陶磁器などの 遺物が検出されている。 城は、鎌取方面から東京湾に向かって東西に延びる台地の先端に築かれ、 北と南側は谷、西は生実池によって囲まれ、東は北から入り込んだ 浅い谷に堀切を入れて台地を区切り、その規模は600m四方に及んでいる。 森川氏は城の一画に陣屋を構えたので、主郭部はそのまま残っていたが、 昭和44・45年の団地造成により土塁・空濠などの施設は消滅した。 (千葉市教育委員会の案内板より・左の絵図も//右は別の案内板より) | ||
生実神社 | 説明碑 | 空堀横の土塁 |
もとは御霊神社と呼ばれていた。 | とても分かりやすい説明がある。 | 空堀(1番上の写真)横にある土塁。 |
空堀の土塁 | 大手口跡 | 本丸跡 |
かなり深さのある空堀! | 生実神社より県道66号の東側の左。 | 本城公園。(中央区生実町本城、他) |
■生実城
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