千葉県 国府台城 |
■国府台城=見学自由 ■里見公園=入園自由 駐車場=無料駐車場(江戸川沿い)(2007.3.4現在) |
住所=市川市国府台3-9 この時は、国道14号〜県道1号を松戸方面へ。 右側にある国府台公園を過ぎ、少しすると、 信号がある所の左側に、里見公園への案内が あるので(見落としそうかな?)それに従って、左折。 車2台分ギリギリの道を進んで、里見公園を通り過ぎて 坂を下り、江戸川沿いを進むと、左側に駐車場。 その付近にある階段を上がって、里見公園へ。 |
国府台城(赤線=火気厳禁の指定) | ||
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「鎌倉大草子」によれば、文明10年(1478)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が 「下総国国府台」に陣取り、 仮の陣城を構えたとあり、これが国府台城の始まりであるとする説がある。 道灌は武蔵にいた千葉自胤(よりたね)を助け、敵対する千葉孝胤と戦うために ここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。 これより以前の康正2年(1456)、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に 立てこもり、足利成氏(しげうじ)方に抵抗していたが、 梁田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。 この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのか どうかは不明である。 国府台は標高20〜25mの下総台地の西の端で、江戸川に平行して南へ張り出した 大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園の中に土塁城の城郭遺構が現存している。 そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。 公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、 太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。 この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と 安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。 天文7年(1538)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦った もので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の 古河公方家との戦いである。これに対して永禄7年(1564)の戦いは、着々と 東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに対抗する里見義堯・ 義弘らの戦いであった。(前年の永禄6年にも合戦があったとする説もある。) 永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など 多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦の中で 激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、 初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。 現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための 供養塔がたてられている。この地はその後、里見八景園という遊園地の 敷地となり、その後は陸軍軍用地となり終戦を迎えた。 (市川市教育委員会の案内板より) |
桜並木(正門から見たもの) | 里見公園の正門 | 江戸川 |
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車2台がギリギリ通る桜並木から、里見公園の正門横を通って、 江戸川沿いに出て少し先に、駐車場があった。 | ||
駐車場 | 里見公園へ続く階段 | 展望案内板から |
道路沿いから里見公園に続く石段が、何ヶ所かある。 公園横の坂を、自転車を押す人達、凄く大変そうだった(^^;) | ||
土塁 | 野外ステージ | 土塁と堀跡(?) |
高さのある土塁(古墳とか)から低いものまで、見ることが出来る…。 | ||
市川市最高標高地点 | つり橋 | つり橋から土塁と堀跡(?) |
市川ではここが一番高いそう。そうなのか…。ちなみに、この公園には 石棺等、写真を写しづらいものが多い(^^;) | ||
羅漢の井 | 芝生広場の花壇 | |
絵は、天保5年(1834)に完成した江戸名所図会に描かれたものだそう。 絵と全然大きさが違うなぁ…(^^;) | ||
花壇の花♪ | ||
花壇には色とりどりの花(^^) 小さい子供の家族連れが、の〜んびりしている。だから、駐車場の出入が少ないのか。 | ||
梅園の一際きれいだった梅♪ | ||
トイレに行きたがっていた子供まで、近寄ってくるほど凄〜くいい香り。 「お前、トイレは?」その子のお父さんのツッコミ。 | ||
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