千葉県 久留里城 |
■久留里城=見学自由 ■久留里城址資料館=入館無料(9時〜16時半) 休館日=月(祝日の場合翌日)・年末年始、他 駐車場=無料駐車場 (2003.11.23現在) |
住所=君津市久留里 この時は、国道410号を南下、 久留里商店街を抜け少し走ると、 カーブがあり、分かりにくく左側に小さい案内があるので従う。 (逆に、北上した場合の方が、右側に久留里城と 大きく書いてあり入りやすい。)路地を 入ると、どんどん狭くなり、すれ違うのが厳しい所もあるので 要注意!帰る際、国道へ出る為の鏡はあるけど、 運転手側からは見えにくい。十分注意! |
久留里城 | ||
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久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること
二十一度なりしかば」(『久留里記』)
と言う説から、別名を「雨城」(うじょう)と言う。
戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷(まりやつ)
武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。
天文年間(1532〜55)の後半になると、安房の里見義堯
(よしたか)は上総に進出し、本拠地を久留里城に移す。
永禄7年(1564)、下総の国府台(こうのだい)の戦いで、
里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちている。
しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、
上総の大半と下総の一部を制圧する。その後、北条の勢力に押され、
天正5年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦する。義弘の死後、
家督を継いだ里見義頼(よしより)は安房の岡本城を本拠とし、
久留里城には城番(じょうばん)が置かれている。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は
勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収された。 以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀 忠政(ただまさ)が三万石、慶長7年(1602)には、 土屋忠直が二万石で入城する。江戸の土屋邸で生まれた 後の儒学者新井白石は、土屋家二代目の利直(としなお) に仕え、18〜21歳までの青年期をこの久留里で過ごしている。 三代目の頼直(よりなお)の時、お家騒動が起こり、 延宝7年(1679)、領地召し上げ、廃城となる。 約60年後の寛保2年(1742)、黒田直純(なおずみ)が三万石の 藩主となり、幕府から五千両を拝領し、3年の歳月をかけ 城を再興している。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、 九代直養(なおなか)の時、明治維新を迎え、明治5年 (1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられる。 (平成13年6月 君津市立久留里城址資料館の説明板) |
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久留里商店街 | 城山の高さ | 急坂 |
(左)上に天守が!(真ん中)駐車場からすぐの道に立つ。 これを見た人達が「急すぎない?」と。(右)セメントの急坂。 | ||
案内図横の階段 | 火薬庫跡 | |
駐車場から歩いていくと、セメントの坂が続く。 少しすると右側に城山探鳥路の案内図が立つ。 その横の階段を上がると、坂を上るより時間が かなり短縮される。山道なので大変だけど…。 ちなみに、セメントの坂は、かなりの急坂!! 下りも、何度つんのめりそうになったか…(^^;) (右)左の写真の階段から行くと火薬庫跡がある。 |
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新井白石の像 | 久留里城址資料館 | 波多野曲輪 |
二の丸跡に像と資料館が建ち、 裏側の道に色々な歌碑も建つ。 始め、この大きな像が誰だか分からなかったなぁ。 | ||
復元天守 | ||
天守台の横に立つ復元天守。 (下3枚)天守からの景色(^^) 凄く色付いてきれいだった♪ |
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天守台 | ||
この土壇は、寛保3年(1743)から延享3年(1746)にかけて、 黒田直純が城を再築した際、築いたと思われる天守の跡である。 礎石群は、昭和52年に実施した発掘調査によって検出され、 極めて貴重な遺構であることが確認された。 礎石の配列は内側と外側の二重に配され、内側は二間(5.4m)×五間半 (9.9m)の長方形を呈し、絵図とほぼ一致。 これらの礎石の配列状況から判断して、建物は二層二階であったと推定され、 近世初期の天守の様式である望楼風天守に類似していたように思われる。 礎石は、二の丸から切り出した砂岩を使用しており、 いずれも赤褐色で鋸引きの跡が残っている。また、砂岩の中に一部 白色のシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩) がみられるが、これらは土台石として用いられたと考えられる。 天守台の構造は、上面に厚さ10cm程度の粘土を敷き詰め、その下に 径2〜4cmの石を10cm並べ、次に若干大きめの石を地山まで詰めているものと 推定される。また、上部の周囲に回らされている瓦は、土圧から台を守る為の措置であると 思われる。(久留里城址資料館の説明板より) | ||
土塀跡 | ||
再建した天守のほぼ裏側から検出されたものである。 寛保3年(1743)の絵図によれば、本丸の土塀は、 前面のみしか図示されていないが、 発掘調査によって後側にも土塀が回っていた事が確認された。 礎石に使用されている石は、殆どがシルト岩(砂と粘土との 中間の細かさを有する岩)で、極めて密に敷き詰められている。 本丸の周囲には小高い帯状の土塁が残っており、表面に漆喰や 粘土の塊が認められる事から、これらは絵図に示されているように 高さ六尺(1.8m)、瓦葺き、塗籠の土塀が崩壊した物であると 考えられる。なお、調査の結果、この土塀は写真手前の 部分で途切れている事が判明し、この付近に出入り口が 設けられていた事が推定される。(久留里城址資料館の説明板より) |
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