千葉県 大多喜根小屋城 |
■大多喜根小屋城=見学無料 駐車場=無し(近辺に駐車) (2006.2.18現在) |
住所=夷隅郡大多喜町泉水 館山自動車道 市原I.Cから右の勝浦、大多喜方面の国道297号へ下りる。 そのまま国道297号を進み、白山台交差点(左に大多喜城の看板あり)を右折、 T字路の泉水交差点を右折。県道172号と国道297号の信号を、県道172号へ。 少しして左に大き目の道があるので左折。その後、 道なり?に左に、(左折かも?)少しすると、左にセメントで固められた丘 みたいなものがある。そこの上が根小屋城。急坂を歩いて行くとある。 ※文中に「?」を付けるほど、曖昧なので、参考程度にして下さい。 |
上総大多喜根小屋城址 | |
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大多喜根小屋城の地は永正、大永の頃、上総真理谷城主武田信興の勢力
範囲であったので、当時武田氏と対抗していた房州の里見氏は、かねてから
東上総方面を侵略しようと図っていた。信興は里見氏の侵略に備えて、
次男信清をして上総小田喜の郷に根小屋城を築城し里見氏に備えた。
これが根小屋城の始まりである。武田氏は二代続いたが、二代目朝信は
天文13年里見氏の時、正木大膳亮時茂と上総苅谷原で戦い大敗して
自害し、時茂は根小屋城に入城、東上総は里見氏の勢力下に入った。
その後、時茂は里見軍に従って相州の北条氏と戦い、勇名房総になりひびき
鬼大膳と言われた勇将となった。
正木氏は憲時、時堯と三代続き、天正18年時堯の時、徳川家康の名将
本多忠勝と戦って落城、時堯は伯耆倉吉に移り正木氏は三代にして亡びた。
家康は忠勝に対し大多喜根小屋城10万石をあたえた。忠勝は根小屋城の防備が近代戦に
そわないと考え、その西南1.5kmの地を選定、詳細な城郭図をそえて
築城を願い出た。家康は戦功顕著な忠勝に対して快く許可したので、近世大多喜城が築城され中世大多喜根小屋城は
廃城となった。(碑より) (左=近くから、右=遠巻きに。) 近くから見るととても城跡っぽく見えるけど、 右の写真のように下からだと、セメントと城址の柵しか見えない(^^;) |
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大多喜根小屋城址から大多喜城を見る | |
遠くに望む大多喜城。大多喜城(千葉県立総南博物館)で 見たビデオと同じように見えた(^^) | |
■大多喜根小屋城
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