東京都 葛西城 |
■葛西城 ■御殿山(ごてんやま)公園=見学自由 ■葛西城址公園=見学自由 駐車場=無し (2005.7.24現在) |
住所=葛飾区青戸7丁目 環状7号線を足立区方面から葛飾区方面へ走る場合、 国道6号の上を走る青砥陸橋を走ってすぐの 「青戸7東」信号の左側に葛西城址公園、反対側に 御殿山公園がある。葛飾区方面からの場合、 小さいが案内板がある。(見落としそうな小さい字。) 駐車場が無いので、この時は葛西城址公園の横に路駐した。 |
葛西城 | ||
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葛西城は中川右岸に沿った標高1〜2m前後の微高地上に占地し、その範囲は
青戸8丁目宝持院付近から青戸7丁目慈恵医大青戸病院付近におよぶものと
推定される。
葛西城址は昭和47年(1972)から環状7号線道路建設に伴い発掘調査が実施され、
戦国時代を始めとする陶磁器や漆器椀等の木製品を多量に出土した。
葛西城から出土した多量の遺物は、今まで古文書や絵巻物でしか
想像できなかった戦国時代像を研究する上で、欠くことのできない貴重な
資料としてその名を全国的に知られている。
葛西城の立地する葛西地域は、中世において秩父平氏の流れを汲む
葛西氏によって治められ、私領の一部は伊勢神宮に「葛西御厨」
として寄進されている。葛西城の築城がいつ頃なされたかは古文書からも
定かではないが、中世におけるこの辺一帯の政治情勢や出土した
遺物から、15世紀中頃と推定される。15世紀末、伊豆、相模方面を舞台に
台頭してきた後北条氏は北条早雲の子、北条氏綱によって関東進出が
企てられ、天文7年(1538)葛西城は氏綱の手に陥落、下総に勢力を張る
足利義明に対する構えとして整備されたことが知られる。
その後、葛西城は16世紀末まで存続するが、天正18年(1590)
小田原の役における後北条氏の滅亡と同じくして葛西城も
落城し、中世城郭としての役目を終えるのである。
近世初頭、徳川家康の江戸開府後、葛西城跡地には青戸御殿が
建てられる。青戸御殿は秀忠、家光の三代にわたって、
鷹狩等に利用された後、明暦3年(1657)頃取り壊されたと
いわれている。
また、葛西城は中世の城館跡として名を馳せているが、
葛西城の下には今から1600年ほど前の古墳時代の住居跡や
井戸跡、多量の土器等が発見されており、当時のムラが
埋没していることがわかっている。
土器の中には遠く東海地方から運ばれてきたものがあり、
当時の水上交通の活発さを窺わせている。
このように葛西城址は、弥生・古墳時代から中世・近世に至る
各時代の貴重な資料を依存している複合遺跡であり、葛飾区のみならず、
東京低地の歴史を研究する上で欠くことのできない文化遺産である。
葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。 沖積地に存在している為、地表で確認できる遺構は認められない。 築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、 北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録(「快元僧都記」)があり、 この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の騒乱の舞台となった。 後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、 将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。 この葛西城が再び注目されるようになったのは、昭和40年代後半のことである。 昭和47年から発掘調査が行われ、その結果、主郭を区画している大規模な堀、 溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品などが出土し、中世の城郭の 存在が明らかにされた。 東京都内には、中世城館跡が多数存在している。 沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡を殆ど残さないことから 内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は、発掘調査によって 明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である。 (東京都教育委員会の案内板より) |
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葛西城址公園 | 御殿山公園 | |
(左)葛西城址公園っていう名前だけで、いたって普通の公園。1番上の写真もここ。
文字だけの説明板があるのみ。 (真ん中&右)葛西城址公園の向かい側にある公園。 こっちの方には、写真入の説明板や、石碑がいっぱいある。 |
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青砥藤綱城跡石碑 | 葛西城由来碑 | 中川 |
(左)青砥藤綱は、鎌倉幕府執権に仕えた名裁判官だそう。 (右)葛西城を守っていた中川。それにしても、車を駐車するのに難儀した。 |
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■葛西城
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