東京都 上野公園 |
■東京都上野恩賜公園=見学自由 駐車場=なし |
住所=東京都台東区上野公園 |
上野恩賜公園 | ||
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江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷だったが、
寛永2年(1625)、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。
その後大きな変化も無く幕末を迎えるが慶応4年(1868)の
彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。
荒れ果てた姿のままであったが明治6年1月の太政官布告により
公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園のいわれは、大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ
下賜されたことにちなんでいる。その後、規模・景観はもとより施設など
我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万u余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。
病院建設予定地であった上野の山を見て、
その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して
実現したものである。(案内板より)
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西郷隆盛と銅像の由来 | ||
西郷隆盛は文政10年(1827)12月7日薩摩藩士として
鹿児島加治屋町に生まれた。
通称吉之助、南洲はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、
大いに国事に奔走したが、これに関連して
奄美大島に流されること2回。
元治元年(1864)許されて京都に上るや、 朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、 木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867) 12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の 参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。 その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて 江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは 余りにも有名である。 その後は、故郷に退隠したが、明治4年(1871)正月、 三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、 参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための 主導的役割を果たした。 然るに、明治6年6月いわゆる 征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による 平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、 後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、 大久保利通などの反対に敗れて辞官帰郷。 私学校を興して後進青年の育成に努めた。 明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に 擁せられて西南の役となり、転戦7ヵ月余、 ついに敗れて城山に自刃した。 9月24日、享年51歳。 そのため一時逆賊とされたが、明示22年2月、 明治天皇の特旨により賊名を除かれ、 正三位を追贈された。 この銅像はこれに 感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同士と共に 追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、 御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、 明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の 巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、 その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠 没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される 所以は実にここに在るのである。 (説明板より) |
■上野公園
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