【高岡大仏】

富山県 高岡大仏 とやまけん たかおかだいぶつ
■高岡大仏=見学自由
駐車場=無料(4台)
※高岡古城公園から歩いても、平気な距離。
高岡古城公園の駐車場は広い。 (2004.4.29現在) 
住所=高岡市大手町11-29
北陸自動車道砺波ICから国道156号を北に14km の片原町交差点を右折、600m走った下関町を交差点を直進、 次の交差点を左折、一方通行を200m。
歩いていく場合、大仏の案内標識が所々にある。

銅造阿弥陀如来坐像 高岡大仏
高岡大仏は、坂下町極楽寺第十五世等誉上人が大仏建立を誓い、 延享2年(1745)、木造金色の仏像を建立したのが始まり。 しかし、その像は文政4年(1821)に焼失。その後、天保12年(1841)に 再興されたが、明治33年(1900)の大火で焼失した。 現在の大仏は、篤信家の松木宗左衛門が大仏の再建を発願し、 明治40年(1907)に造営事業が着手された。 その後、中川原町の荻布宗四郎らの協力により、 20有余年の歳月を経て昭和8年(1933)に全工程を完了、5月に 開眼式が行われた。昭和55年(1980)に11m後ろへ下がった現在の場所へ 移転・補修された。 原型は中野双山。古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法、 鋳造から着色に至るすべての工程を高岡の工人・職人達の手で 行った記念すべき大作。 昭和33年(1958)に建載された円輪光背には、阿弥陀仏の 仏徳を一字で表現するキリークという梵字が頂点に配されており、 大円輪の光背がそびえる大仏尊は世に珍しい。 (高岡市教育委員会の案内板より)
(地上より総高さ 15m85cm、身長 7m43cm、 御顔 2m27cm、青銅消費量13,125kg) (案内板より)
時鐘
江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので 町民に時刻を知らせる必要があった。 それは規則的な生活を営み、共同社会の秩序を保ち、 生産の能率を上げ災害を防止する上にも重要であった。 当時の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の認可をえたところ、 金屋町は前田利長以来の藩の厚い保護に報いる為その鋳造を願い出て 文化元年(1804)に出来上がった。そうして9月11日午前6時から 二番町会所でつき始めたが、間もなく鐘に割目が生じ改鋳に迫られた。 坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけた事を 悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励等として 文化3年(1806)7月遂に見事な大鐘を完成した。 これがこの時鐘で、口径112cm・唇厚18cm・高さ197cm・重量2250kgあり、 鐘面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。 以来朝夕高岡町民に親しまれてきたが、明治12年以降 数度の火災により移転され、その後大佛寺に寄付されて 今日に到っている。(高岡市教育委員会の案内板より)

■高岡大仏
高岡古城公園から歩いて来たのだけど、そんなに遠くなかった。 大仏様の顔は、想像していたより、不思議だった。 あごのグルグル回ったひげが、なんとも(^w^) 夕方だから、近所の親子らしき人くらいしかいなかった。

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