和歌山県 田辺城 |
■田辺城(別名=錦水城)=見学自由 ■錦水公園 駐車場=2台(この時は路駐) (2009.7.31現在) |
住所=田辺市上屋敷 この時は、(アクセスが不安なまま 進んだので、参考までにして下さい。) 阪和自動車道 南紀田辺I.Cを下りて 国道42号バイパスに入らず、稲成ランプ信号を右折(田辺市街への国道42号)。 稲成町信号で、まっすぐの県道208号へ進み、道なりに進んで 県道29号へ右折。途中で県道29号が左折になるけれど、 そのまま狭い道を進むと、海沿いに出るのでそこを右折。 田辺大橋の手前の右側の道路横が錦水公園。 駐車場は、橋から手前2本目の右側の路地へ。 ※このアクセスは狭い道が多いので、他のルートがいいかも。 |
田辺城 | ||
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慶長5年(1600)関ケ原の戦いの後、紀伊国には浅野幸長(よしなが)が
入国し、田辺には浅野左衛門佐氏重(さえもんのすけうじしげ)が入った。
浅野氏は、慶長11年(1606)会津川左岸河口に築城し移るとともに、
新たに城下の町割を行った。
田辺城はこの時に形作られ、その城下町は今日の田辺市街地の元となった。
元和5年(1619)徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩主となるとともに、
頼宣の付家老であった安藤帯刀(あんどうたてわき)は、3万8000余石を与えられ田辺領主となり、
以後幕末までこの城は安藤氏の居城であった。
徳川幕府の一国一城制により、公的には館と称したが、
幕末には錦水城とも呼ばれた。 安藤家は紀州藩の筆頭家老として、 和歌山に常駐し、田辺は親類の安藤小兵衛家が留守居役として、 代々城代家老を務めた。 城の河口近くには、埋門型の水門が設けられ、この水門を利用した 記録も多く残っている。 明治3年(1870)田辺城は廃城となり、早くに姿を消してしまったが、 現在、僅かに水門が昔の面影を残している。(田辺市教育委員会の案内板より) (右=すぐ横を流れる会津川と田辺大橋の夕景。) |
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錦水公園 | 鯱や瓦 | 見えるかな? |
(左)夜7時前の公園は、年配の方がチラホラ。 (真ん中&右)中には鯱や丸瓦が入っていたけど、見えづらい(^^;) | ||
礎石? | 水門 | 案内板 |
(左)礎石だ〜♪と思ったけど新しそう。 でも、ここにあったんだろうなぁ(^^) (真ん中)上から。白い点々はゴミ…。 | ||
■田辺城
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