和歌山県 闘けい神社 |
■闘けい神社=見学自由 ■大福院 駐車場=有料駐車場 (2009.7.30現在) |
住所=田辺市湊655 この時は、県道206号を北上し、県道31号へ右折。 少し先の右側の広めの道へ右折(次の広めの道は、 闘けい神社の馬場で、車は入れないので注意)。 信号を過ぎた左側にコインパーキングの入口がある。 |
闘けい神社 | ||
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闘けい神社に熊野権現をまつり、田辺の宮と称したが、
熊野別当湛増が社前で紅白の鶏を闘わせ、
白鶏が勝ったので源氏に味方して、屋島壇ノ浦の
戦に源氏を援けたことからこの名前がついたと
云われている。(田辺市観光協会の案内板より) 右=参道と有料駐車場(左側)。 ちなみに、写っているのは愛車〜(^^) |
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闘けい神社・境内地 馬場 | ||
巾約11m・長さ約230m 本来は若宮神社まで馬場があり、江戸時だから流鏑馬や競馬の行事が 行われていたが、昭和39年に危険防止などの理由により現在に 至っている。現在の長さは短くなったが、両側の石垣積みの 土居も残っており、7月の田辺祭には、笠鉾鳥居前勤めや 子供流鏑馬などの行事が行われる。(案内板より) |
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湛増(たんぞう)・弁慶の像 | ||
源平の戦いは、一の谷の合戦から海上戦に移り、 当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に 大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である 熊野別当湛増に対する源平双方の働きかけは激しさをきわめた。 義経の命を受けた弁慶は、急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、 湛増は白い鶏七羽、赤い鶏七羽を闘わせて神意を確かめ、 湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、 金剛童子の旗をなびかせて総勢2千余人、2百余の舟に乗って 堂々と壇ノ浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。 時に文治元年(1185)3月のことであった。 (武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣八百年祭実行委員会の碑より) | ||
弁慶社 | 大福院の弁慶生誕地の碑 | |
紀州田辺は、弁慶生誕の地と
伝わり、奥州平泉で弁慶が亡くなった事を
悼み、植えられた弁慶松に祀られていた御霊。(案内板より) (右)闘けい神社のすぐそばの大福院に、 弁慶生誕地の碑がポツンとある。 暗くて字を読むには難しい(笑) |
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