山形県 松山城 |
■松山城 ■松山歴史公園=見学自由 ■松山文化伝承館=350円 開館時間=9時〜16時30分 休館日=月曜(休日の場合翌日)、年末年始 駐車場=無料 (2006.7.29現在) |
住所=酒田市字新屋敷36-2 この時は、新庄市方面から国道47号を西の酒田市方面へ進み、 県道361号へ右折。そのまま361号を進んで行き、直進の国道345号を進み、 県道362号を右折。進んで行くと、突然前方が侵入禁止の道になって、 左に車線が歪んだ感じの道になり、「眺海の森」右の看板を右折し、 櫓の付いた橋を(下で写真紹介)渡って、左に松山歴史公園。 |
松山城大手門 | ||
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天明元年(1781)築城にあたり本丸西方外濠に面し、城郭の正面として 翌2年9月に竣工し、通常端門または多聞楼と称せらる。 完成以来9年目、即ち寛政2年(1790)秋10月10日の早暁屋上に落雷し之を焼失す。 時に酒田在住の荘内藩士並びに松山藩財政方、本間四郎三郎、 光丘同次郎四郎重利の両士大手門再建を藩庁に出願す。藩庁為に幕府の許可を 俟ち、寛政4年(1792)6月26日再建完成す。 現存の城門即ち大手門これなり。翌5年山形銅町の鋳工庄司氏造るところの青銅の 鯱1対、屋上に飾り再建の主旨を明記す。鯱の高さ4尺8寸(約145米)造形極めて 優美なり。(現在屋上にある鯱は大手門再建200年を記念して、平成4年4月 山形市銅町庄司逸雄氏により製作されたものである。)藩政時代階上に 非常の兵具を配置し、階下の門扉(現在無し)の両側に下士12名門番として、 昼夜常駐せり、中1名は面番役また1名は下座見役とし常に拍子木を持ち、 その打数により時刻並びに登城の士の通過を門番に通報する。 但し藩主不在中は大門扉を閉じ、側の潜り戸より通行する事を例とせり。 明治2年城郭破却中来松の按察使坊城章閣下による格別の取り計らいにより、 破却を免れ得たものと伝えられる。後に旧藩校の流れを汲む松嶺正心学校の 校舎として子弟教育の場となり、貢献長期に亘る。再建以来実に200有余年の 風雨に耐え当時の城郭を偲ぶ唯一の建物として、今尚毅然として城址に建つ。 (松山町教育委員会の案内板より) | ||
松山藩及び築城の沿革 | ||
中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す。 江戸期初頭荘内藩主酒井忠勝公の遺命により、第3子酒井忠恒公に 荘内の所領の中中山村外35ヶ村及び村山郡の中左澤地方74ヶ村併せて 知行2万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す。正保4年(1647) 12月11日其の許可を得たり。依って寛文元年(1661)中山地内稲荷沢 古舘の跡を選び、ここに舘を構築し中山陣所と公称し政庁を開く。 翌2年忠恒公家臣団と供に鶴ケ岡より移駐し、鶴ケ岡亀ケ崎に因み、 中山を松山に改め以後松山藩と公称す。 超えて第3代藩主酒井石見守忠休(ただよし)公幕閣に列し若年寄の 重職を歴任す。安永8年(1779)12月15日幕府忠休公永年の勤功を嘉し 上洲の地桐生地方5千石を加増し、城主を命じ松山に築城を許可す。 以後松山藩2万5千石の表高となる。 依って宗藩鶴ケ岡の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い、 執政上野織右ェ門安邦を総奉行に任命し、天明元年(1781)5月工事に 着手す。以来、巨額の工費と人力を動員し、天明7年(1787)9月に至り 本丸仮御殿を落成し、第1次の築城工事を終わる。時巳に忠休公逝去し、 第4代忠崇公之に替る。以来荘内松山城としてその偉容を近隣に誇り、 幕末に至る。時に藩主第7代紀伊守忠良公たり世情まさに王政復古の 動乱期に当り慶應4年(1868)の春以来宗藩と共に武門の誉れを守る。 明治元年(1868)維新後、宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により 時の政府に城地没収取り壊しの厳命を受け、遂に全域郭を破却の 止むなきに至り、ここにその当時の偉観を全く失うに至る。 実に創藩以来200年余築城以来80有余年に亘る松山藩の命運であった。 (松山町教育委員会の案内板より) | ||
松山歴史公園 | 馬出跡土塁 | 松山文化伝承館 |
今は酒田市。石碑に松山町の名残り。 | ここで土塁が見れるとは(^^) | こちらも夕陽に照らされて。 |
茶室「翠松庵」 | 松山歴史公園の冠木門 | 駐車場 |
駐車場や歴史公園は閉門時間が遅いのか、 それともしないのか、18時を過ぎても開いていた。 おかげで見れた♪ | ||
本丸御殿跡 | 物見櫓跡 | 藩校里仁館(りじんかん)跡 |
歴史公園を出て歩いて行くと、すぐ近くの幼稚園の前に松山城の跡が2ヶ所あって、 少しだけ先にある生涯学習施設の「里仁館」の裏に藩校跡があった。ここの対称は 小さい子から大人まで幅広いらしくて、最初、高校?と思った(^^;) | ||
最終的に歴史公園には… | 櫓の飾りが付いた橋を渡る | 大手前広場跡 |
「最終的にどこを曲がるの?」と思った人は、 この案内板を見た後、真ん中の写真の櫓が付いた橋を 右折するといい(笑)その手前に、大手前広場跡がある。 ここの道路形態が、対向車線が水路を挟んだ道になっているので、右折時は注意。 | ||
大手前広場跡から | 本丸の土手 | |
大手前広場跡から見た水路。 | 外にも無いかな?と車でウロウロしている時に、 見つけた本丸の土手♪ | |
■松山城
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