やまぐちけん きよすえはんていあと
■清末藩邸跡(清末陣屋)=見学自由
■東部中学校
駐車場=無し
2008/1/1現在
住所=下関市清末陣屋
この時は、国道491号を長府方面へ南下し、小月駅付近を過ぎて少しして、東部中学校の看板のある信号を右折。
道なりに進んで行くと、右に東部中学校があって、道沿いに石碑などがある。
長府藩初代藩主であった毛利秀元の二男・毛利元知が、その領地の一部を与えられ、長府の支藩として清末藩を始めることを許された。 関ヶ原の戦いから約50年後の承応2年(1653)のことである。神田川と木屋(こや)川を 東西の境として奥に広がる地域で、現在の清末・小月と菊川町の大部分を含んだ石高1万石の領地だった。 今、国道2号線の沖側に見える広大な農地はその後に干拓されたもので、当時はこの高台のすぐ下まで、海が迫っていた。 清末は、藩内では交通の便利がよく、中でも後ろは山、前は海、東西を川に囲まれているこの地は、 敵に攻められにくいという点で、居城に最適の土地であることから、ここに藩邸が築かれていた。 以来、明治維新に至るまで200余年間、清末は城下町として繁栄を続けてきた。(清末ふるさとまちづくり推進委員会の案内板より)
今から約350年前に、清末藩が始まるまでは、旧山陽道から沖合いは海で、今の本町・西町の住民は自分の家には井戸がなく、 大地主の石井氏が井戸を掘り、六角の井側を付けて皆に水を汲ませてあげていた。場所は本町の西境の低い所であった。 清水が無限に湧く石井の池は、六角池と呼ばれていた。清末の清はこの池の清い水が起源とも言われている。 昭和30年頃、通学路を作る時に埋められたが、井側だけが記念として小学校に保存されていた。 今回それをここに移設したものである。(清末ふるさとまちづくり推進協議会の案内板より)
清末藩邸跡 2008.1.1記
ひたすら東部中学校を目指すんだけど、初めての道だったから、 こっちでいいんだよね?なんて感じで、恐る恐る車を進ませた(^^;) 道沿いに石碑や説明板があるから見学しやすいけど、路駐になってしまう(^^;)