【弘前城 その2】

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東内門外橋(石橋)と両側の堀
城内では唯一の石で造られた橋で、弘化5年(1848)にそれまでの 土橋を掛替えた。二の丸側の大イチョウは、すべての 葉が落ちると里に初雪が降ると言い伝えられている。 また北側の濠には、古代蓮として有名な「大賀ハス」が植えられている。 (案内板より)
二の丸東門与力番所
与力番所とは、城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、 藩政時代には追手門与力番所、三の丸東門与力番所等12ヶ所に建てられて いたようである。この与力番所の建築年代は定かでは無いが、 柱や梁に残された墨書きは江戸時代初期に建てられた三の丸東門の 墨書き跡と酷似し、構築手法は江戸時代中期の様相を呈していることから、 古材を利用し、江戸時代中期に一度改修したものと推定される。 廃藩以降取り壊される事も無く、そのまま放置されていたものを、 大正4年頃に現在、緑の相談所が建てられているその東側に曳家 移築し、以後公園管理人宿舎や作業員詰所として使用していた。 それを、昭和54年から3ヵ年をかけ、文化庁の指導協力を得て再度復元 移築したものである。(弘前市の案内板より)
東内門外橋下には… 玉鹿石(青森県天然記念物) 桜が無いと寂しいね
下には白鳥が羽休めしていた。 はじめ、何かと思った(笑) 二の丸はどこも同じに見える。
武者屯(むしゃだまり)御門跡
長勝寺構の黒門と同様の高麗門形式で、門扉は二枚扉であった。 番所があり更に門の両脇に袖塀があったことが古い写真からわかる。 二の丸と下乗橋で区画され、本丸に連絡路で続くこの一郭が「武者屯」 で、合戦の際には大将が軍装を整えて号令を発する場所である。 (案内板より)
下乗橋(げじょうばし)
本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札があり、 藩士は馬から降りるように定められていた。築城当初、 橋の両側は土留板だったが、文化8年(1811)に石垣に直したものである。 以前は擬宝珠が十二支をかたどったものであった。(案内板より)
擬宝珠が十二支って、どんなかんじだったんだろうな〜。 そうそう、弘前城といえば、この橋と天守閣♪
下乗橋からの天守閣 天守閣の入口
鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、 ここで武具などを作製、修理した。このような石垣は、 城内各所に見られる。   三の丸門跡もいいけど、ここもイイッ!石段を下りながら、 往時を偲ぶ…。いいねぇ。
弘前城は、津軽を統一した津軽為信(ためのぶ)が 計画し、二代藩主信枚(のぶひら)が慶長16年 (1611)に完成させた。当初の天守が五層で 本丸西南隅に構築されていたが、築城から16年後の 寛永4年(1627)に落雷により消失した。 現在の天守は、江戸時代末期の文化7年(1810) 九代藩主寧親(やすちか)により、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。 建築年代は新しいが、濠側の東・南両面には鉄扉窓をつけず、 矢狭間だけとし、また、一・ニ層にはその中央に張り出しを つけ切妻破風、石落しを設けるなど古形式になっている。 江戸時代に建築され、現存する天守としては、東北地方 唯一のものであり、小規模ではあるが、全国の城郭 天守の中でも代表的なものである。(弘前市の案内板より)
下乗橋を渡って本丸へ 亀石 本丸に入ってすぐ左側
本丸御殿御玄関礎石
この礎石に玄関の柱が建てられていた。御殿は日常の事務を行う表と、 藩主が政務を行う中奥、藩主の日常生活の場の大奥に大別される。 また、本丸には能舞台や御武芸所等敷地の七割ほどに各種の建造物があった。 (案内板より)
御日記蔵跡 御金蔵跡(ごきんぞうあと) 御宝蔵跡(ごほうぞうあと)
弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記は、寛文元年(1661)に四代藩主 津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、 津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっている。 この日記は、現在4,200冊余が残されているが、これを保管した 蔵がここにあった。(案内板より) 寛文13年(1673)の絵図にすでに記載があるが、延宝8年(1680)に建設されたとも いわれている。元禄4年(1691)には屋根が瓦葺であった。入口前には番所も置かれ、 有名な古木として五つ葉のヒメコマツがあったという。また「牛こなかせ」と よばれた小高い場所であった。(案内板より) この御宝蔵には、青山と呼ばれた琵琶や、小野小町が持っていたと 伝えられる琴があったといわれる。このほか本丸には、政庁や藩主の 居住区の役目をした御殿や能舞台、藩主の武芸所等があり、 御金蔵や西の御土蔵、御日記土蔵と呼ばれた蔵も建てられていた。 (案内板より)
本丸
気持ちがいいぐらい人がいない(^^;) 春は花見客でごったがえしているから、写すには本当にいい。
本丸未申櫓跡 本丸戌亥櫓跡
ここには、築城当時は五層の天守閣があったが、寛永4年(1627)に 落雷で焼失した為に、隅櫓が建設された。元禄7年(1694)に石垣を修理した際、 不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、最勝院に保存されている。 櫓の方角を十二支で示したもので、未申は南西に当たる。(案内板より) 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために 土蔵造りで、元禄3年(1690)に柿葺の葺替えが終了している。 また同9年には、櫓下にあった番所の修復も行われており、 北の郭から櫓台下、本丸への通路があった。(案内板より)
本丸から蓮池を見る 本丸から北の郭を見る
桜は無くても撮るだけで絵になる気がする(^^)緑に赤の橋も映えるし。
本丸から北の郭へ 鷹丘橋を過ぎて本丸戌亥櫓跡を見る
こういう道を歩くのって嬉しい。どうなるのかな〜ってワクワクするから。 右の写真の石垣の姿、格好いい♪
鷹丘橋
武徳殿休憩所
明治44年(1911)に演武場として竣工し、その後 休憩所として保存修理したもの。
籾蔵跡
ここには、四代藩主信政の生母である久祥院の屋形があったが、 宝永元年(1704)以降は宝蔵や籾蔵が建てられ、廃藩の頃には籾蔵が建ち並んでいた。 平成12〜13年度の発掘調査で、籾蔵を構成する礎石列が確認された。 礎石は約1m間隔で並び、東側及び南側はh後世の建物の為失われていたが、 12間×4間(約24m×8m)の規模であることがわかった。 この籾蔵が建てられた時期は19世紀前半と考えられる。 発掘された礎石は盛土により保護した。その上に石を配置し、区画内の舗装の色を 変える事により、籾蔵の跡を表示した。 (弘前市の案内板より)
子の櫓跡
北の郭北東隅の土塁上には、藩政時代を通して三層の櫓があった。 櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていた。子の櫓は廃藩以降もその姿を 留めていたが、明治39年(1906)に花火の為消失。 平成13年度の発掘調査により、正方形に並ぶ櫓の礎石と石段が確認された。 櫓の礎石には、石切の際の矢穴や柱を据えた凹み(くぼみ)のあるものがあり、 中央には束石がある。櫓の規模は4間×4間(約8×8m)であり、二の丸に 現存する三棟の櫓と同規模となる。 櫓の基礎及び石段については、発掘調査で確認されたままの状態で表示した。 (弘前市の案内板より)

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