トロとまったり・tripのページ(今治城 その1)

愛媛県 今治城

えひめけん いまばりじょう

■今治城(別名=吹揚城)=見学自由
■天守=400円(3つの櫓と共通)
開館時間=9時〜17時(受付は16時半・3月〜11月)
      =9時〜16時半(受付は16時・12月〜2月)
休館日=年末・他
駐車場=有料駐車場

2009/5/2現在

住所=今治市通町3-1-3

今治城

今治城は、築城の名手、藤堂高虎により慶長7年(1602)に着工し、同9年(1604)に完成した。 堀に海水を引き入れる日本三大海城の1つで、大規模な近世の平城でもある。 また、日本で初めて層塔式天守が造られるなど、織豊期の城郭とは異なる革新的なものが認められる。 藤堂高虎は、同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の築城縄張に関与している事から、今治城は徳川系(関ケ原合戦以降)城郭の雛形と言われている。 築城当時は3重の堀があり、いわゆる総構えの城であった。城の規模は現在の10倍以上であったと言われている。 現存するのは本丸と二の丸、三の丸の城塁と幅約50mの内堀のみで、昭和28年に愛媛県指定史跡「今治城跡」に指定されている。 現在の天守は、昭和55年に市制60周年を記念して再建された。5層6階の天守には、武具・甲冑・刀剣など今治藩ゆかりの品が展示されている。 御金櫓は昭和60年に、山里櫓は平成2年に市制70周年記念事業により再建された。 さらに、平成16年から19年にかけて、今治城築城・開町400年祭の記念事業として、総鉄板張りの鉄御門及び武具櫓、東多聞櫓、西多聞櫓、 東西控塀の一連の建造物並びに明治期に取り壊された桝形石垣が市民の寄付により再建された。 これにより、築城当時の今治城の雄姿が400年ぶりに再現された。(案内板より)

■今治城の特徴…
1.今治城は、別名を吹揚城という。 今治城が築かれたこの場所が、砂が吹き揚げらてできた砂浜だったからである。 初め藤堂高虎は、ここより南方約5kmにある国分山城に入城したのだが、そこを廃して地盤の軟弱な海浜にあえて築城した目的は、瀬戸内海航路の制海権にあった。 それは、交易路として莫大な富をもたらせるという経済的意味と、西国大名の交通路を押さえるという軍事的重要性があった。
2.堀と石垣の間に犬走りがある。敵に攻められた場合に、足場にされるという欠点があるが、今治城のように軟弱地盤の上に高石垣をともなった大城郭を構築する場合、 石垣の基礎部分を固める非常に有効な土木技術上の工夫だった。
3.堀の水は海水である。堀は海と繋がっていて、(北側・来島海峡大橋の見える側)、海水の満ち引きによって堀の水位が変わる。 鯛やヒラメなどの海水魚が泳いでいるが、1番よく目に付くのはチヌとボラで、他にサヨリやウナギや海老類が生息している。(案内板より)

東側

【パノラマっぽく加工】駐車場から。微妙な加工になってしまったけど、一気に見た方が、断然格好いいし(^^)

こんなにもライトアップされているとは思わなかったので、ビックリした!
【左】御金櫓。【真ん中】天守。【右】武具櫓。

三の丸への土橋

【左】駐車場から鉄御門へ。
【真ん中】上から。左の堀の石垣の黒い■の部分が、海水流入樋門。
【右】ナニかな?

鉄御門(三の丸へ)

鉄御門の再建は、平成15年「今治城築城・開町400年祭」の記念事業の一環として計画された。 三の丸の大手筋に当たるこの曲輪は、総鉄板張りの鉄御門を始め武具櫓・東多聞櫓・西多聞櫓の7連の櫓で形成されていたが、 明治4年に焼失し、翌年には本丸・二の丸の建築群と鉄御門桝形門正面石垣も撤去されている。 本計画は、鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓及び東西控塀の一連の建造物を市民の寄付金により復元する事業である(武具櫓は昭和55年再建)。 上屋建物については、江戸時代末期の慶応3年、半井梧庵撮影の写真と芳野家文書を復元の基礎資料とし、史跡今治城跡整備検討委員会の指導のもとに設計された。 発掘調査については、事業開始にあたり平成16年2月から史跡整備の基本である試掘調査を行い、 平成17年10月から工事に伴う事前調査を開始し、旧櫓台の根石や下部築石、門礎石(石灰岩の大石)が地中より検出された。 石垣修復には、重さ16t、表面積8.9uの勘兵衛石を桝形正面中央に据え、出土大築石(表面積2.5〜5u)は、出土位置に配するなど、 遺構築石を全て再使用、不足築石のみ地元大島産の野石(花崗岩)で補充している。 修復石垣の面積は計314.9u、復元石垣面積は計37.1uに及んでいる。 高虎時代の桝形地盤面は海抜5.8mと思われるが、現地盤よりかなり低く、復元は困難である為、後世の久松期(海抜6.5〜6.8m)程度としている。 これに伴い門前の石段・雨落ち等は同時期の形態を復元している。 建築物は、鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓は岐阜県・茨城県産欅材、背面冠木のみ岩手県産松丸太材を、東西多聞櫓は久万産他の檜材、小屋組は久万産の杉材と島根県・鳥取県産松丸太を使っている。 鉄御門を始めとする7連棟の延床面積は769.2uとなっている。(案内板より)

【左】外側から。 【真ん中】暗いと怖い…。 【右】三の丸から。

鉄御門の礎石

展示されている2つの石は、H17年1月〜平成18年10月にわたる発掘調査において検出された、三の丸表門である鉄御門に使われていた礎石である。 これら2つの礎石は、鉄御門の正面鏡柱と背面控柱を支える礎石で、梁間寸法5.70mあったことが分かっている。(案内板より)

桝形と勘兵衛石

巨石は鏡石で、勘兵衛石と伝えられ、城内に保存されていたものを、 発掘調査結果をもとに本来の位置の桝形正面石垣中に戻した。 名前の由来となった渡辺勘兵衛は、今治城の築城奉行を務めた。 戦国期から江戸初期にかけて活躍したいわゆる「渡り奉行人」で関ケ原の戦後、 藤堂高虎に仕えた。

ライトアップまで、紹介する事無いんだけど(笑)

鉄御門を三の丸から

夜と違って明るいから、安心感がある(^^)それにしても、大きい!
【左】門入口に立つ人が小さい!

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