トロとまったり・tripのページ(名島城 その3)

名島城・北西側

【左】帆柱石の碑が立つ海岸側からの遠景。
【真ん中】下から。【右】名島神社の臨時駐車場(有料)方面。

名島海岸側の鳥居

【左&真ん中】こじんまりした石鳥居。 【右】名島神社の有料臨時駐車場からの名島城遠景。

名島帆柱石

【左】(切り取り加工)丸太の様な細長い木が帆柱石で、波打ち際に転がっていた。

ここから10m程奥に入った場所にある9個の円柱状石は、古第三紀漸新世(こだいさんきぜんしんせい)前期 (今から約3500万年前)に堆積した志免層群(しめんそうぐん)名島層の砂岩、 礫岩層中に含まれる珪化木(けいかぼく)と呼ばれる樹木の化石である。 香椎宮(かしいぐう)の社伝には、3世紀頃、神功皇后(じんぐうこうごう) が三韓出兵の際に使用した船の帆柱が化石になったものという言い伝えがあり、 波打ち際の岩の上に並ぶその姿は、まさに帆柱を連想させる。また、この石は国の天然記念物に指定されている。(福岡市の案内板より)

【左】帆柱石の碑が2つ。【真ん中&右】帆柱石付近。【右】車道側から。

縁の石

「縁の石」は、この辺り福岡東区名島に多く残る神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説にまつわる旧跡の1つである。 言い伝えでは、神功皇后が三韓(朝鮮半島の古代三国)から帰朝して、 名島の地に着いた際に、その船の帆柱が化石となったものが国指定天然記念物の 「名島檣石(ほばしらいし)」、凱旋の祝宴を設けた所が「砧板瀬(まないたぜ)」、 ご懐妊なされていた皇后が腰を下ろして休まれたのがこの「縁の石」とされている。 このため、婦人この石に寄り添いて祈れば安産なり、また縁遠き子女が祈れば良縁に巡り合うともいわれている。 なお、この緑地は博多港海岸環境整備事業において、平成15年度から平成19年度にかけて整備したものである。 平成20年3月(福岡市港湾局の案内板より)

名島海岸

重なる部分はあるけれど、パノラマっぽく。
【左】箱崎浜ふ頭。 【真ん中】香椎かもめ大橋。 【右】香椎浜ふ頭。

城山道

【左&真ん中】車での帰り道、何気なく壁に張っている「城山道」を発見。 案内によると、愛称の謂れは、名島城の本丸があったから。 案内は真ん中の写真のガレージの右横の壁にあった。カラフルだから結構目立つ。(2011/8/15撮影)
【右】大手口側から城山道を。

七兵衛屋敷通り

帰り道、車で大通りに向かっている最中、 フェンスに「七兵衛屋敷通り」という気になる字を発見! 急いで写したからか、その場の写真が1枚のみ…。(2011/8/15撮影)

名島門(福岡城に移築) // 崇福寺唐門(移築門)

【左&真ん中】福岡城に移築されている名島門。
【左】外側から。 【真ん中】内側から。
【右】崇福寺の唐門は、市内に残る唐門の中でも最古だそう(@@)

■名島門…この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、 慶長年間(1596〜1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移す時、 黒田24騎の1人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、 「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の1つである。 明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、 天神の自宅の門として使用されていたが、戦後富士ビルの建設に伴い、 平岡浩(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されたものである。(福岡市教育委員会の案内板より)

名島城 2015.7.5記

名島神社の臨時駐車場(有料)の他に駐車場は無かったので、またもや路駐…。 公園の整備も終わり、気になっていた本丸や大手口の石垣を見学することができた♪ そういえば、付近にあった帆柱石が、珪化木という化石だとは知らず、石を探してしまった(^^;) 今回は、いろいろと見学ができてよかった(^^)ちなみに見学時間は、帆柱石等含めて約30分。

名島城 2011.8.15記

駐車場が見つけられず、路駐しようにも禁止区域が多くて困った(^^;) そういえば、神社用の有料があったような…。仕方が無いので、1人は車で待機、1人は見学することに。 でも、整備中らしく、入れなくて…(^^;)消化不良のままの見学終了となった。 機会があれば、城址碑を写したいな〜(^^)

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