【会津若松城 その1】

・・・会津若松城は3ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】  ■次へ→

福島県 会津若松城 ふくしまけん  あいづわかまつじょう
■会津若松城(別名=鶴ヶ城)
■鶴ヶ城公園=無料
■鶴ヶ城天守閣=500円
開城時間=8時30分〜17時(入城は4時半まで)
駐車場=有料駐車場(何ヶ所かあり)
                    (2005.4.30現在)
住所=会津若松市追手町1-1

会津若松城(鶴ヶ城)
至徳元年(1384)葦名直盛が東黒川館を築いたのが始まりといわれている。 その後、会津領主だった葦名盛氏が改築し、現在の城郭の原形を築いた のが黒川城。文禄元年(1592)蒲生氏郷によって七層の天守閣を築き、 城郭は甲州流の縄張を用いて整備し黒川の名を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名した。 慶長16年(1611)会津地方を大地震が襲い、天守閣は大きく傾いた。 寛永16年(1639)加藤明成は、この天守閣を改修、 七層の天守を五層とし、北馬出、西馬出を 北出丸、西出丸に改築し現在の形態となった。
幕末、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、 戦いの場が会津へと移り、約1ヶ月の篭城戦を戦い抜いた 鶴ヶ城は傷つき荒れ果てた。天守閣は明治7年に陸軍省の命令で、 取り壊されたが、城跡は、旧会津藩士遠藤敬止らの尽力で、 陸軍省から払下げられた。昭和9年、国から史跡の指定を受け、 現在の天守閣は、昭和40年に復元されたものである。
桜がよく似合う。鶴ヶ城自体が大きいから、邪魔にならないんだよね(^^) 春に来て良かった〜♪
二の丸と三の丸の間の橋 二の丸東門跡(右=右側)
二の丸と三の丸の間の橋なんだけど、見えないかな? そして、二の丸東門へ。近くにいる人で分かるけど、大きい!
二の丸東門跡(左側) 二の丸東門跡の上へ… 二の丸東門跡を振り返って
二の丸東門の上へ。ここから伏兵郭が見える。高さがあるから、 微妙に歩くのが怖い…。
伏兵郭 二の丸 本丸と二の丸の間(三岐濠)
この時は(右の写真後)廊下橋から見学したので、 二の丸南門跡は後だけど、一緒に紹介したいので、下へ続かせた。
二の丸から二の丸南門跡方面 茶壷櫓跡から二の丸方面
桜の花びらがヒラヒラ落ちてきてきれいだった〜(^^) 下を通るのも良し、外側の本丸から(右の写真)見るも良し♪
二の丸南門跡 ひょうたん濠 三の丸
ちなみに、上の二の丸横の道を歩いていると、青大将が落ちてきた! 周りの人、大騒ぎ(^^;)春だからね〜。
廊下橋(二の丸から&茶壷櫓跡から)
東より入る敵への戦略的な橋で、敵が押し寄せた時、切り落とすことが出来た。   廊下橋と桜と山並みが美しい!
廊下橋から五軒丁濠&高石垣 廊下橋から三岐濠
高石垣(忍者落し、扇の勾配)は、鶴ヶ城で最も高い約19mの石垣。  高石垣を見ていると蛇の鱗を思い出す(^^;)
廊下橋&天守の頭 廊下橋から枡形 本丸と帯郭の間の石垣
二の丸から本丸への廊下橋を渡って、枡形を通る。 (真ん中=本丸側から振り返って。右=まだまだ続く石垣。)
本丸埋門跡
天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の 城門である。城内の他の門や建築物に比較して、低い門構えで 埋門の形態をとっていた。 大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639)の 加藤明成による改築後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても 重要な門。(案内板より)
  (真ん中=上から。右=横から。)

・・・会津若松城は3ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】  ■次へ→

【 福島のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る