【前橋城 その1】

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群馬県 前橋城  ぐんまけん  まえばしじょう
■前橋城(別名=厩橋城)=見学自由
■群馬県庁
展望ホール…平日8時半〜22時・土日祝9時〜22時
休園日=月曜(消えそうな字で書いてあった)
駐車場=県民駐車場(8時〜22時半。入庫21時半)
利用料=2時間まで無料。以後30分毎100円加算。
                    (2005.10.9現在)
住所=前橋市大手町1丁目
(この時は、)関越自動車道 前橋I.C下りて国道17号を左に進む。 そのまま進み群馬大橋を渡って、3つ目の県庁南交差点を左折。 少し進んで左に県庁入口があって、そこから駐車場へ入った。

再築前橋城の概要 (案内板の写真をクリック→拡大)
再築前橋城は、文久3年(1863)着工後、3年8ヶ月かかって慶応3年(1867)3月完成した。 城の縄張りは、旧前橋城三ノ曲輪を本丸とした渦郭(かかく)式(渦巻き状に 曲輪が続く様式)え、城郭総坪数は旧前橋城に匹敵した。城を取り巻く土塁の要所所に 砲台が設けられるなど、近代的な城郭であったが、完成を急ぐあまり城門や建物は 簡素なものであった。しかし、城は城郭としての機能を果さないまま明治維新を迎え、 本丸御殿(後の群馬県庁舎)を残して取り壊された。現在、本丸跡が群馬県庁と なっているが、現存する城の遺構は少ない。(案内板より)

■左の地図の番号説明
@前橋公園土手(再築前橋城土塁跡)
A前橋城址之碑(碑文には城主松平直克の城再築の功を 偲んでこの碑を建てるとある)
B群馬県庁土塁(再築前橋城土塁跡)
C風呂川(広瀬川より城内の生活用水として引き入れた川 現在も同じ所を流れる。)
D前橋城車橋門跡(前橋城関連の城門として唯一残る門跡)
E車橋門地下石積(昭和63年に発掘調査され現在保存されている)
前橋城車橋門跡
関東の4名城にも数えられていた前橋城の遺構は大変少なく、 現在では、県庁周辺の本丸土塁とこの門跡くらい。 この門は、城の外曲輪から城内に至る重要な門で、 対の石積みの台石は1辺7.7m×4.25m、高さ1.4mある。 前橋藩4代藩主酒井忠清(後に大老)の代(1637〜1681) に、2本の柱の上に横木を1本置いた冠木門から、 櫓の二階を通って門の左右に渡れる渡櫓門に改築され、 その後、酒井氏の後を継いだ藩主松平氏が川越へ移城した 後もこの門は存続していた。現在の門は、昭和39年 区画整理事業により、間隔がせばめられ西側の 台石が東へ8m移動された。(案内板より・絵図も)

(左下)ここから入ると左に曲がる感じに なるんだけど、こっちからはわかりにくい。
車橋門の石垣について
この建物の下には、前橋城車橋門の石垣が保存されている。 前橋城は関東4大名城の1つだが、幾多の変遷を経て、この石垣の他、 県庁周辺の土塁と大手町3丁目の空堀とが今に残っている。 前橋市教育委員会の調査によると、堀は関東ローム層まで掘り込まれ、 その面に基礎として四寸角の松材を組み杭で固定した上に石を積み上げる、 筏(いかだ)工法と呼ばれる方法がとられている。 石垣の高さは、1m40cmで、四角錐(すい)に切られた間知石(けんちいし)が 二段に積まれている。石垣の裏側には、玉石が裏込めしてあるなど、細かい点まで 配慮されて作られている。絵図などによると、張り出し部分に橋が架かり、 史跡に指定されている石組に櫓を渡す構造であったと推定される。 (日本経済新聞社の案内板より・絵図及び写発掘写真も)

(右)群馬会館の右側の大きな道を進んで行くと、 左側にある。こっちの方がわかりやすい。
群馬県地方裁判所 裁判所附近の堀 三の丸緑地
この辺りが三ノ丸。 堀の名残と見ていいのかな。 でも、本丸側にあるよね?
三の丸緑地 前橋城跡の碑への入口 土塁は続く
この続いた土塁(左)の端っこに、下の前橋城の碑が建ってる。
前橋城跡の碑
この石碑は旧前橋藩にゆかりのある人々などにより、 明治41年(1908)3月に建てられた。碑文には前橋城の由来と、 碑の建設経過が記されている。 碑の標題は城主の子孫である松平直之氏が筆をとり、 本文は東京帝国大学の国史学の教授である重野安繹氏が執筆して、 書家の日下部東作氏が書いた。 かたわらの副碑によれば、石碑建立には五名の建設委員があたり、 県内外の八百名を越える人々の寄付があった事が知られる。 碑の建つこの地は、江戸時代末期の慶応3年(1867)に整備された 「再築前橋城」の、本丸を囲む土塁の北東部上にあたる。 (群馬県の案内板より)
■前橋城跡の解説… 前橋は古くは厩橋といった。東山道の群馬の駅が近く、それが地名の起こりで あろうという。厩橋城が築かれたのは15世紀末頃で、初代城主は箕輪城主長野氏の 一族長野左衛門尉方業(法号固山宗賢)と推定されている。 以後長尾氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文21年(1552)小田原北条氏の 勢力が上州に及び、永禄3年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が 厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。 このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な 要害が群雄争覇の目標とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り返された。 天正10年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の武将滝川一益が厩橋城に 入って、関東管領を称したが、信長の急死によって本国へ帰り、 城は北条氏の手中に帰した。ついで天正18年(1590)4月、小田原 征討軍の浅野長政らに攻められて落城した。 同年8月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城 3万3千石に封じた。親吉は治政11年を経て、慶長6年(1601) 甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後9代 150年の間、酒井氏の藩政が続いた。4代忠清は大老となり、 下馬将軍の名で知られる。 酒井氏時代の前橋城は城域15万坪余に及び、西に利根川の断崖を 背とし、東南にのびる丘上に郭と堀を巡らしていた。 本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。 五代忠挙の時、城下は最も栄え公称を前橋と改めたが、 その晩年は財政に苦しみ、寛延2年(1749)忠恭の時、 姫路に転封となった。代わって姫路から松平朝矩が入封したが、 酒井氏時代以来難題であった利根川の激流による城郭の破壊が 進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和4年 (1767)川越へ移城した。以後、前橋城は廃され、 8万石に近い城付領は約100年の間、川越藩の分領として陣屋支配を 受ける事となった。 この間、主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を 請願したが、幕末の藩主直克の決断により、文久3年(1863) 12月、幕府から再築の許可を得、慶応3年(1867)3月竣工して 帰城が実現した。この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に 寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、 労力奉仕があった。しかし、僅か半年で大政奉還となった。 廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、 そのため前橋の町は今日の繁栄をみている。 碑文は、藩主松平直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。 この城址碑の位置は、旧城三の丸東南角の土居上に当たる。 碑の題額は、直克の長子松平直之氏、撰文は修史局編集官、 のち東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。 書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮である。 (群馬県の案内板より)

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