【箕輪城 その1】

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群馬県 箕輪城  ぐんまけん  みのわじょう
■箕輪城=見学自由
駐車場=無料           (2007.11.4現在)
住所=高崎市箕郷町西明屋
(広域では関越自動車道 前橋I.C〜国道17号を 南下〜県道29号を沖町交差点を右折( 県道10号か県道26号になっているの忘れたけど…)〜県道26号。) そのまま県道26号を走って、西明屋交差点を過ぎて、次の 西明屋箕輪小前交差点を右折。 少し走って行き、出光を過ぎてカーブの所に小さい 「県立農林大学校」 の看板(他にも大きな看板があり)を左折(出る車が いる場合、左折しにくい道になっている)。 ちなみにカーブを過ぎたら行き過ぎ。カーブの 所を曲がると思う方がいいかな。 その後、箕輪城の看板を左折。

箕輪城 (下3枚の案内板をクリック→拡大)
箕輪城は、明応、永正年間(1492〜1521)に長野尚業(ひさなお)(業尚) が築城し、子憲業(のりなり)、孫業政(なりまさ)により強化された。 長野氏は武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして 互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の 再興を計って最後まで奮戦した武将である。 特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜8)から数回に及ぶ信玄の 激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と領民の ために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。 業政の死後、子業盛(なりもり)(氏業うじなり)は父の遺志を守り 将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、 永禄9年(1566)9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の 総攻撃により、ついに落城するに至った。 城主業盛は、
春風にうめも桜も散りはてて  名のみぞ残る箕輪の山里
という時世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。 長野氏の在城は60余年である。 武田氏の時代は天正10年(1582)、その滅亡によって終り、 織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、 信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。 天正18年(1590)北条氏滅亡後徳川家康は、重臣井伊直政を12万石で ここに封して関東西北の固めとし、 城下町も整備した。その後、慶長3年(1598)直政が城を高崎に移し、 箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
箕輪城跡の標高は270m、面積は47haに及ぶ丘城(一部平城)である。 西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水堀を 回らして守りを固めている。 城は深さ10数mに及ぶ大堀切で南北に二分され、さらに西北から東南の 中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。 御前曲輪で発見された井戸を始めとする多くの井戸や 祭戸堰用水によって、城の用水は完備していた。 殊に法峯寺郭は、江戸時代の 兵書「手鑑」にも引用されているほどに優れた用水である。 六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ 各所に半ば埋もれた石垣も残されている。(箕輪城跡保存会の碑より)
箕輪小
(左)箕輪小学校の入口付近にある箕輪城址入口石碑。 後ろが道路だから、写すのが恥ずかしかった〜(^^;)
(真ん中)箕輪小学校校門。  (右)箕輪小のグラウンドは、椿名沼跡。 椿の路の説明にあった所。(2005.11.3撮影)
搦手口
搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。 ここにも「馬出し」があった。 長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、 ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された 井伊氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口 となったといわれている。 (箕輪城跡保存会の碑より)
(右)搦手口をぐんぐん上って…道が写っていないけど左へ進む。 (左&右=2005.10.9、真ん中=2005.11.3撮影)
二の丸(真ん中=駐車場、右=駐車場から搦手方面)
二の丸は縦横各80m程の郭で、本丸が持久防禦のための郭であるのに 対し、これは出撃の拠点である。  東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと、四方へ出撃できる ようになっている。(箕輪城跡保存会の碑より)
左2枚=東屋から。
晴天=2007.11.4、雨=2005.10.9撮影
本丸門馬出
東から南に鍵形の土居のあった馬出で、土居の北側から搦手へ、 南側からは二の丸へ出撃する。本丸の南側の突き出ている部分は、 この馬出の内外を側面から守るように出来ている。 (箕郷町の碑より)
(左)跡形も無く…。(2007.11.4撮影)
(真ん中)発掘時の。(2005.10.9撮影)
二の丸と本丸を結ぶ土橋
(左)本丸側から。左側は本丸門馬出。 (真ん中)二の丸と本丸の空堀。 (右)本丸側から虎口。(2007.11.4撮影)
本丸
本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100m、東西約70m、 東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。 この土手が御前曲輪の東側まで続いている事により、 御前曲輪も本丸の一部であったと考える事が出来よう。 本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、 西の空堀に降りる通路となっていた。 空堀底は初期はすべて交通壕であったが、後に掘り下げられて そのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には 前に、「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を 側面から防ぐようになっている。 (箕輪城跡保存会の碑より)
長く延びた土居や少し残る石垣がいい♪(晴天=2007.11.4、雨=2005.10.9)
御前曲輪
この郭は本質的には本丸の一部であって、落城の際、城主は ここの持佛堂に入って自刃し、一族郎党みなあとを 追ったと伝えられているように、 箕輪城の精神的中心であった。 いわば天守郭が本丸の同一平面に設けられたとも考えられる 所である。昭和2年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの 墓石が発見された。西南隅には櫓(物見・戦闘指揮のための)があったと思われ、壕内に 石垣が残っている。天守閣は無かった。 (箕輪城跡保存会の碑・箕郷町教育委員会の案内板より) (右=本丸と御前曲輪を隔てる堀。凄くきれい!2枚=2005.10.9撮影)
郭馬出と土橋
郭馬出は、50m×30m程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの 中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出る所。 このような大形の馬出を郭馬出という。高崎城の 梅木郭は、この郭馬出を手本としたものであろう。 (箕輪城跡保存会の碑より)
(左)二の丸から郭馬出へ続く土橋。
(真ん中)逆から。  (2005.10.9撮影)
土橋からの大堀切
この大堀切によって城は南北に2つに区切られ、 中央にある土橋1つで連絡されている。このように一方を失っても 片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。 土橋の南には見事な郭馬出が構えられ、出撃の気勢を見せている。 (箕輪城跡保存会の碑より)   (2005.10.9撮影)
木俣 二の丸から三の丸の土橋&空堀
通路が二俣、三俣のように5つの方向に分かれるのを 木俣という。(箕郷町の碑より) (真ん中)二の丸から三の丸方面へ行く前に、 振り返って。サルビアがきれい。
(右)土橋から見た空堀。 素敵♪ (左2枚=2005.10.9、右=2007.11.4撮影)
三の丸&三の丸門跡と石垣
城中の石垣で、比較的よく残っているのはここである。 三の丸は二の丸の外にある郭で、入口の三の丸門には 両側の石垣の上を渡した櫓があり、その下が通路であった。 (箕郷町の碑より)
凄く苔むしていて素敵♪(左2枚=2005.10.9、右=2007.11.3撮影)
三の丸の石垣 大堀切
この大堀切は東西に走り城を北と南の二つに分けている。 こういう大規模な堀を、鍬と「もっこ」で築いた人々の 労苦が偲ばれる。(箕郷町の碑より)
(左)三の丸門跡から長く続く石垣。
(右)その先の大堀切。これだけのものを作るのは、 大変だっただろうな〜。
(左=2007.11.3、右=2005.10.9撮影)
鍛冶曲輪
鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、 ここで武具などを作製、修理した。このような石垣は、 城内各所に見られる。(箕郷町の碑より)
三の丸門跡もいいけど、ここもイイッ!
石段を下りながら、往時を偲ぶ…。
           (2005.10.9撮影)

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