トロとまったり・tripのページ(福山城 その5)

石垣を見上げつつ…

鏡櫓が左側に見える。

二の丸 ・ 東上がり楯門跡 ・ 鹿尾菜櫓跡

【左】東上がり楯門跡。この名称は、「福山城 今と昔」からで、石碑には「東揚楯御門跡」になっている。
【右】鹿尾菜櫓跡。

二の丸

阿部正弘は、福山藩阿部家7代の藩主にして、弱冠25歳で閣老に任じ、以来十有四年、その開明的な政策を推進し、国政を整え、もって国外に対応せり。 福山藩主としては、庶民の中に人材を登用し、藩政を改革し、教育に明日の世代の形成を托して、 藩校誠之館を開き、進んで西欧の学術をも取り入れ、その後の福山文化の発展に貢献す。(阿部正弘公銅像建立期成同盟会の説明より)

【左】二の丸。
【真ん中】本丸西側石垣の排水溝を。
【右】阿部正弘の像。

二の丸 ・ 蔵口門跡&天守礎石

【左】塩櫓跡から蔵口門跡と天守礎石を見下ろして。写真中央方面が五千石蔵跡。
【右】天守礎石。

水野勝成の像

【左】顔に垂れているシミが怖い…(^^;)

水野勝成は、元和5年(1619)備後10万石の藩主に封ぜられるや、この町を開き、福山と命名す。 移封以来、民政に意を用い、広く領内に池溝を開削し、干拓を行い、耕地の拡大に努め、芦田川を改修し、水道を穿ち力を尽くす。 また社寺を復興し、文化の昂揚を図り今日の福山の礎を築く。(水野勝成公銅像建立期成同盟会の説明より)

五千石蔵跡

【左】写真左下が蔵口門跡。
【真ん中&右】福寿会館のある辺りは五千石蔵跡で、ここで見られる石垣は現存だと、公園内にいたおじさんが教えてくれた。

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