【姫路城いろいろ巡り その2】

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久長門跡
中曲輪東側にあり、久長町にあることからこの名がある。 外門と内門は東向きで、中濠に土橋が設けられていた。 外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。 外門の内に番所が設けられていた。(案内板より・絵図も)
 南側(土橋方面)&北側(逆から)。
(左)土橋跡から久長門跡を。  (真ん中)左の写真の左側の石垣。 とてもきれいに積んである。(右)東側の中堀。
(右)歩道にある線は、東部中濠石積跡。 城下町時代には、この表示位置まで広がっていたと 想定されるんだとか。
内京口門跡
中曲輪東南方にあり、京都方面に 通じる道に向いて開かれている為に この名がある。中濠に土橋が設けら れ、濠が鍵型に屈曲し、外門と内門 は南向きである。外門は脇門付高麗 門で、内門は脇門付櫓門である。 外門の内に番所が設けられていた。 (案内板より・絵図も)  学校の裏門で、土橋は駐車場に…。  (右下)内京口門通り。
総社門跡
■総社門…姫路城の中曲輪の南部に設けられた5城門の1つで、 播磨国総社西門に至るところから その名称が付けられた。 昭和59・平成7年度の2度にわたる発掘調査で、門跡西端部の 鍵型に折れる「石垣」とその下を潜り中堀へ排水する「暗渠」が 検出された。総社門の旧状は明治時代以降の改変で分かり難く なっているが、本来は市民会館南側で中堀(現国道2号)を 「土橋」で渡り、歩道付近で「外門」を入ると現存高石垣に ぶつかり、西折れして「内門」を入るいわゆる「桝形」構造をしていた。 また、現在地付近には門出入りの人を監視する「御門番所」が置かれていた。
■総社門跡西部石垣… 平成7年度の発掘調査で検出された東西石垣の断面を原位置のまま 保存している。「積石」の奥行が長く、その裏にぎっしり 詰められた「栗石(川原石)」とともに堅固な石垣を構成している。 この石垣は、本来東方へ約10数m延びて、内門南石垣に連なっていた。 (姫路市教育委員会の案内板より・絵図も)
 (左下)西側石垣。(下真ん中)断面表示。 (右下)東側の高石垣!ツタだらけ!
中ノ門跡
中曲輪正面五門の中央にあるので この名がある。外門は南向き、内門 は東向きで、中濠に土橋が設けられ ていた。外門脇門付高麗門で、内門 は脇門付櫓門である。外門の外に出 番所、内に大番所が設けられていた。 さらに、内門に接して単層の橋が設け られていた。(案内板より・絵図も)
G(くまたか)門
中曲輪南側の西方にあり、本町と 坂本町との間に設けられた。外門と 内門は南向きで、中濠に土橋が設け られていた。外門は脇門付高麗門で、 内門は脇門付櫓門である。外門を 入った所に番所が設けられていた。 (案内板より・絵図も)
(左下)外側から桝形を。ぐねぐね〜。
(下真ん中)桝形から。(右下)外門。
埋門跡
船場川沿いに設けられた城門の1つ。中曲輪南西隅櫓の傍らに 設けられた。外門と内門はともに南向きで、中濠に土橋が設けられて いた。外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。南西隅に 二重の埋門櫓を付し、櫓北方と東方に多門が設けられていた。 (案内板より・絵図も)
 (右下)埋門跡西側の北へ続く堀。
車門跡
船場川沿いに設けられた城門の1つである。 中曲輪西南に設けられ、二重桝形の城門である。 前に木橋が掛けられ、その北に車道門があったために この名称がある。第一門は西向き、第二門は南向きで いずれも脇門付高麗門である。内門は南向きで 脇門付櫓門である。また第一の門の横に、番所が設けられていた。 (案内板より・絵図も)
 (真ん中)昔は、木橋。(右)船場川。
(左)橋を渡って第一門跡。 (真ん中)桝形から左に折れて第二門。 (右)食い違って内門へ。石垣がいっぱい♪
(左)水門側。  (真ん中)振り返って。穴が開いた石も♪  (右)桝形から、第二門(上真ん中の写真)を振り返って。


■姫路城いろいろ巡り
金曜日の3時に到着したからか、大手門駐車場はガラガラ。 ラクにとめて、西側の市ノ橋門跡から時計回りで見学開始。 1つ1つ門跡を見れるのは嬉しいんだけど、歩く歩く(@@;) 結局、約1時間45分(撮影スポットも含め)掛かってしまった。 改めて、広さを実感!それにしても、『イーグレひめじ』からの 眺めが素敵だった〜♪(写真=工事中だった清水門跡で。)

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