【置塩城 その1】

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兵庫県 置塩城 ひょうごけん おきしおじょう
■置塩城=見学自由
駐車場=無料駐車場(神社横・川沿い)
                    (2008.11.2現在)
住所=姫路市夢前町宮置
この時は、福崎方面から中国自動車道に沿った県道23号を 西へ走り、前之庄信号で県道67号へ左折。 途中で、県道67号と80号が左と案内板にあるけど、 ずっと道なりの道で進んで行くようになり、 その先の置塩城跡の看板と県道80号が左と なっている所を左折。そして、夢前川を渡って左折。 川沿いに走っていくと、右側に登山口がある。

置塩城 (案内板の写真をクリック→拡大)
室町時代に播磨守護職であった赤松氏の居城。 標高370mの城山の山頂部に位置する播磨最大規模の 山城跡である。遺構は東側の城内最高所に当たる 伝本丸跡と、そこから鞍部を隔てた西側の伝二の丸 跡を中心に広がり、曲輪・通路・石垣・土塁などが残っている。 平成13〜17年度に夢前町教育委員会が発掘調査を行った結果、 伝二の丸跡で庭園とそれに面する大型の礎石建物、 伝二の丸跡の北側で曲輪群を貫く通路の遺構などが確認された。 これらは格式を意識して構築されたものであるが、 この意識は置塩城跡のプランを特徴付けるものとなっている。 また、伝本丸跡には最終段階で天守的な性格を持つ と考えられるセン列建物を構築しており、城郭使用の 末期段階において伝本丸跡を中心とした曲輪は、この城全体の 「詰城」的な機能を持っていたと考えられる。 なお、発掘調査を通して出土した生活遺物は、 土師器皿、中国製磁器碗・皿、備前焼甕・擂鉢、瓦質 土器火鉢など1万点以上に及ぶ。 一般的に置塩城は文明元年(1469)に、赤松政則が築城したと 伝わるが、この城が居城化し大規模に改修されるのは、 16世紀半ば以降で、赤松政村(晴政)・義祐・則房が 城主であった時期に相当する。天正8年(1580)羽柴秀吉に よる城破令が出され廃城となった。 (姫路市教育委員会の案内板より)
遠景 夢前川 城址碑と登山口
(左)左側の白く写るのが愛車。 駐車場が広いので、とっても安心。  (右)城址碑の右側に登山口がある。
登山口の「十八丁」石碑 登山道 炭焼窯跡
登っていく間、こういう石碑が、
十八丁までポツポツ置かれていた。
地面に石がゴロゴロ埋まってて、
歩きづらい道が続く…(^^;)
25分歩いてここに…。
昭和初期のものなんだとか。
分岐点 南曲輪群 土塁
炭焼窯跡から約10分。ようやく城跡に到着(^^;) まず、南曲輪群へ。真ん中の写真から見た土塁には、大きな石が。
南曲輪群。(左)上で紹介した曲輪から下の曲輪を。 (真ん中)その下の曲輪から土塁を。 (右)南曲輪群を見上げて。
細い道を進み… 「十八丁」と石垣 茶室跡
南曲輪群の素敵な土塁を堪能した後、細い道を進むと 「十八丁」に到着。本丸までかと思ってたら、茶室跡まで。
その石碑横に、少し石垣が残ってた♪立てかけられているのは、 説明板でなく「お願い」。 茶室跡は広かった〜。
置塩城址の棒 茶室跡の土塁 分岐
(左)茶室跡に立つ城址の棒。 (真ん中)多分、茶室跡を囲んでいた土塁。 (右)正面が二の丸で、右に進むと本丸。
二の丸北曲輪群土塁 曲輪跡 本丸下石垣
分岐から東へ進むと、二の丸北曲輪群の土塁と 本丸の間がかなりあいてて、空堀のような雰囲気の曲輪跡が!
足元には、ブルーシートや石がゴロゴロ。本丸側には石垣も残ってて、 おお〜っ!って感じで嬉しくなる(^^)
本丸へ 振り返って 景色
さて、本丸方面へ。本当にこっち?みたいな両脇が草で ワシャワシャな道を進んでると、途中で、木々の間から、
こんな景色が♪ ちなみに、本丸からこの方面の景色は、山の頭が見えるくらいで 微妙だったから、こっちを紹介。
本丸南曲輪群
本丸と本丸南曲輪群の分岐があるけど、その先は藪…! (右)本丸から見下ろしても、行けそうな雰囲気ではなく…。

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