【竹田城 その1】

・・・竹田城は3ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】  ■次へ→

兵庫県 竹田城 ひょうごけん たけだじょう
■竹田城(別名=虎臥(とらふす)城)=見学自由
駐車場=無料駐車場       (2008.11.1現在)
※時刻を表記した写真について…
個人的なメモです。 なので、同じ時間帯に見えるとは限りません。 (明け方には雨が降りましたし。)
←南千畳方面と雲海。6時42分。
住所=朝来市和田山町竹田
この時は、国道312号を南下して、 竹田信号を過ぎて、次の信号を右折。 線路を渡って左カーブで上がって、 道なりに進むと中腹駐車場へ。

竹田城 (案内板をクリック→拡大)
    (上)国道312号から山頂に見えた竹田城!8時半。
■城主について…
城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代城主となった 伝えられ、以後、太田垣氏は7代にわたりこれを 守り継いだ。応仁の乱では、2代城主景親が京都へ 出陣した際、夜久野へ来襲した細川軍を景近の二男 宗近が撃ち破ったという。 永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を 攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃を受け、 竹田城はついに落城した。 このあと秀吉は弟・小一郎を城代として城内の 整備を命じている。同8年(1580)桑山重晴が城主となり、 13年には四国征伐などで戦功のあった赤松広秀を竹田城主 として入れた。広秀は、九州征伐、朝鮮の役等に出役したほか、 文化人としても儒学者藤原惺窩との親交も厚く、領民には 産業を奨めて深く敬慕された。 関ケ原の役には西軍に属した。関ケ原敗北後、 徳川方として鳥取城を攻め、戦功を挙げたにもかかわらず、 城下に火を放ったことで徳川家康の忌避に触れ、鳥取 真教寺において自刃し果てた。 享年39歳、慶長5年10月28日のことである。
■遺構について…
竹田城は、別名「虎臥(とらふす)城」という。嘉吉年間、 山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する 要衝の地に13ヵ年を費やして築いたものと伝えられてきた。 築城当時の城には石垣は無く、曲輪を連ねただけのものであった。 それが現存の完成された城郭に整備されたのは、天正〜 慶長初期と推定されている。 石垣は近江穴太衆の手による穴太流石積み技法を用いた 野面積みである。石材は現地のほか山麓付近から集めたもの であろう。 遺構は最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下南方に 南二の丸、南千畳、北方に二の丸、三の丸、北千畳を 築いている。さらに、天守台の北西部には花屋敷と 称する一郭があり、主郭の中でも最も低い位置にあるため、 南北には向かい合った塁状石垣列を築いている。 規模は南北約400m、東西約100mで、今なお当時の威容を 誇っており、山城として全国でも数少ない現存する遺構である。 (和田山町教育委員会の案内板より・絵図も)
(左)南千畳方面。6時41分。  (右)北千畳方面。6時48分。雲海が素敵〜(≧▽≦)  
遠景 模擬門 駐車場登山道
駐車場登山道は、健脚コース&近道で、10分。駐車場も広い。 大手門コースは、のんびりコースで15分かかるらしい。
駐車場登山道
健脚コースというだけあって急な道(@@;) 雲海が出ているかも?無くなっちゃわないかな?の気力で頑張った(笑)
花屋敷の虎口
駐車場登山道から素敵な石垣を見つつ上がると、 またまた素敵な虎口が♪(右)虎口付近の石垣も良かった〜♪
(左)花屋敷側から。(真ん中)虎口から花屋敷を。 (右)上から。上側の虎口が花屋敷方面で、 下の虎口が平殿へ。
(左)本丸下の平殿へ向かう虎口。  (真ん中)振り返って。  (右)上から。虎口を上から見れるのは嬉しいなぁ♪
花屋敷
(左)縁の石垣が目立つ花屋敷。  (真ん中)二の丸から見下ろして。  (右)雲海の頃。右下に見えるのが花屋敷。
花屋敷の石垣 本丸方面 奥殿と本丸の石垣
(左)駐車場登山道から上がってくると、高石垣が! (真ん中)逆光が残念…。 (右)遠く薄っすら見えるのが北千畳。
花屋敷から奥殿へ
(左)花屋敷から南東の本丸下の奥殿へ。 (真ん中)虎口。 (右)虎口から正面の石垣は本丸の石垣。 右側は平殿。

・・・竹田城は3ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】  ■次へ→

【 兵庫のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る