【水戸城 その1】

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茨城県 水戸城 いばらきけん みとじょう
■弘道館=190円
開館時間=9時〜16時(休館日=年末)
駐車場=無料駐車場        (2005.3.26現在)
(写真)三の丸の中堀。
住所=水戸市三の丸1丁目6番29号
この時は国道6号を水戸方面へ進み、 国道50号へ左折。県道180号を右折し、ずっと進むと国道51号へ左折。 駅前を過ぎ、県道232号を過ぎて、少し進むと弘道館へ行く一方通行がある。それか、 行き過ぎて国道50号と118号の交差点を斜め右に行き、 警察署の手前(確か曲がってすぐだったと思う)の道を右折すると、 先に書いた一方通行と同じ道に入ることが出来る。 道なりに進んでいくと、右にバス用の駐車場があって、斜め左に 普通車用の駐車場がある。

水戸城跡
水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹(すけもと)がこの地(現水戸一高)に 館を構えた事にはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持った ことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が 栄えたのである。 15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、 代わって居城した。 それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学附属小、 水戸二中、水戸三高)を、築くなど、城郭を拡張して約160余年年間水戸地方を支配 したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、 天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に 江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。 こうして54万余石を領する佐竹義宣の 本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって 栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、 慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。 その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609) に第11子頼房が藩主(25万石、第三代綱條の時から35万石)となってから 代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り 三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として 幕府を助けたが、第二代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、 明治維新の源流を開いたのである。 (水戸市教育委員会の案内板より)
本丸(水戸第一高等学校)
この一郭は鎌倉時代に馬場氏が館を建ててから、江戸氏・佐竹氏と城主が
変わっても本城(本丸)であった。しかし徳川氏は居館を二の丸に建て、この
曲輪は武器貯蔵所とした。城門は東端に浄光寺門、中部に中門があったが、
現在残る唯一の門は橋の袂にあった橋詰門のみである。 (案内板より)

躊躇したけど、大丈夫だった。よかった〜(^^)
桝形虎口 下の丸 学校の下は…
すぐに入って駐車場。 今はグラウンドになっている。 学校は結構高い場所に。
旧水戸城薬医門 一棟 昭和58年3月18日指定 (茨城県立水戸第一高等学校内)
この城門は、旧水戸城の現存するただ1つの建造物で、 形式は正面の柱の間が三つ、出入口は中央だけの三間一戸 の薬医門、二つの脇扉がついている。 薬医門とは、扉を支えている本柱とその後にある柱(控柱)で 支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、 側面の姿は対称形ではない。正面から見ると、軒が深い為 門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので、 多く造られた。建立の時期は、構造や技法から見て安土・桃山期と 推定される。建物の各部分に用いてある木材の大きさの割合、 すなわち木割は太く、屋根面の相交わる部分に用いてある 木材(棟木)は見えるようになっている化粧棟木で、 棟木を支えるとともに装飾となっている板蟇股は雄大、 また化粧垂木の端の反り増しの技法、柱の上にあって 軒桁を支えている横木(実肘木)やえぐって曲面にした 板蟇股の部分(繰形)の形状などから見ると、おそらく 佐竹氏の時代(1591〜1602)に創建され、徳川氏に引き継がれた ものといえよう。 城門のあった位置には諸説があるが、城門の風格からみて橋詰御門、 すなわち本丸の表門と考えられる。永らく城外に移されて いたが、昭和45年4月17日、水戸市指定建造物となる。 昭和56年9月、この城門に相応しい旧本丸の入口に近いこの場所に 移築、復元した。その際部分補修をするとともに、切妻造の 屋根をもとの茅葺にかえて銅板葺とした。 (茨城県教育委員会の案内板より)
本城橋
(左)高校の入口にある二の丸と本丸の間の橋。二の丸方面を。 (他)橋から空堀を。今は線路が通る。深いなぁ。
大手門跡

大手橋に接してここにあった2階造り の大手門は、佐竹義宣が慶長6年 (1601)に建てたものであったが、 徳川氏の代になっても水戸城の入り 口の門で、前に下乗の札、後ろに 番所があった。楼上では太鼓または 鐘を打って知らせた事もあったが、 明治初年に取り壊された。 (案内板より)
大手橋
三の丸と二の丸を結ぶ橋。人が渡り終えるまで待とうとしたけど、 次から次へと(^^;)(右)三の丸の弘道館方面。
茨城百景 弘道館と水戸城祉碑 徳川斉昭公像 徳川頼房公像

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