トロとまったり・tripのページ(鶴丸城・鹿児島城 その1)

鹿児島県 鶴丸城

かごしまけん つるまるじょう

■鶴丸城(別名=鹿児島城)=見学自由
■鹿児島県歴史資料センター黎明館=300円
開館時間=9時〜18時(入館は17時半まで)
駐車場=無料駐車場
(写真)本丸東北隅の石垣から大手橋方面。

2012/5/1現在

住所=鹿児島市城山町7番2号
この時は、国道10号を北東へ進み、市立美術館前信号を過ぎた路地を左折、 突き当たりを右折して黎明館の駐車場へ。

鶴丸城

■77万国の本拠は天守閣をもたない屋形造り…鶴が翼を広げた形をしていることから、 鹿児島城は別名鶴丸城と呼ばれていた。 慶長6年(1601)、関ケ原合戦の後、島津家18代家久が上山城(城山)の補修と麓の居館造りを思い立ち、 父義弘の「ここは海に近すぎて危ない」という反対を押し切って着工する。 家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めたのである。 まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、慶長11年(1606)城の前の橋が完成したとされている。 城と言っても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形造りだった。 これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、 藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城が巡らされていた。 城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、 5,000人余りの町人が集められたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようである。 維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、明治6年(1873)炎上。 残されたのは城壁と擬宝珠(ぎぼし)つきの石橋だけとなった。(鹿児島市の案内板より)

駐車場
黎明館と上山城の遠景
火山灰

【左】駐車場の背後は上山城。
【右】見学終了後の写真。車に火山灰が!! フロントガラスなんてもっと酷かった…。

屋外展示場へ
周囲の石垣
茶室

屋外展示場には、樋の間二つ家、茶室、御池等がある。
【左&真ん中】なかなか雰囲気のある水路と石垣。

樋の間(てのま)二つ家(え)

この建物は、姶良郡横川町下ノ赤水の海老ヶ迫家住宅を移築したもので、建築の時期は天保年間(1830〜44)と伝えられている。 南北棟の「なかえ」と東西棟の「おもて」が直角に接し、南側に全面を揃えている。 2つの棟が「樋の間」で連結された典型的な「樋の間二つ家」である。この種の民家は、川内川流域から姶良郡一帯に見られる。 なお、改造してあった部分は、移築の時取り除き、梁の揺れを防ぐ為補強工事を行い、樋の上に樹脂被覆鋼板を敷いてある。(案内板より)

【左】屋外展示場の移築民家。不思議な形(^^)
【下真ん中】ボケ気味に…。

御池

島津氏第18代家久によって構築され、270年間にわたって島津氏の本城であった鹿児島城(鶴丸城)本丸の東南隅に、 御池と呼ばれる池があった。 明治時代初めに廃城となり、その後、城跡には中学造士館や第七高等学校造士館が建てられた。 昭和時代の初め頃、七高のプール建設の為、御池の石材の一部は鹿児島市の公会堂(現在の中央公民館)で使用し、 大部分の物は鹿児島市鴨池動物園の庭園に移設されていた。昭和46年12月、同園が平川へ移転の為、 この石材は当時明治百年記念事業として建設計画のあった黎明館の庭園用に鹿児島市から譲渡され、 昭和58年この場所に復元した。(案内板より)

【左】きれいな緑(^^) 【真ん中】九皐橋。 【右】橋のそばには立派な石燈籠。

本丸・北御門跡・北側〜北東の石垣

【左】北御門跡(黎明館の北口)と土橋。
【右】北御門跡(黎明館の北口)の土橋から北側に続く石垣を。

【左】北側にも鶴丸城跡の碑が立つ。近くには、薩摩義士碑も。
【真ん中&右】北側の石垣の端。

【左】北御門跡(黎明館の北口)の土橋から北東方面。
【真ん中】時々、大きな石が見られる(^^)
【右】東北側から土橋方面を。

本丸・北東隅の石垣

【左】(パノラマっぽく加工)写真左端が大手橋で、東北隅の石垣は鬼門除けで欠けている。
【右】角度を変えて。

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